著者の略歴−画家。1969年東京生まれ。群馬県桐生市に育つ。1994年東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。1996年同大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。大和絵や浮世絵を思わせる伝統的手法を取り入れつつ、時空を自由に混在させ、人物や建築物などを緻密に描き込む作風で知られる。巧妙な仕掛けとユーモアにあふれた作品は日本のみならず世界からも人気を得ており、近年では成田空港のパブリックアートや書籍の挿絵、CDジャケットも手掛けるなど幅広い制作活動を展開している。2012年11月には平等院養林庵書院に襖絵を奉納。 家族を考える本サイトが、日本美術史の本を取り上げるのは、妙な具合であるのは承知である。 しかし、巷間にやや日本回帰を感じる昨今、日本美術史の本が発売1年もしないうちに8刷りも売れていることに、何か通底するものを感じるので取り上げることにした。 筆者は日本の近代美術史を、土着の内発的な動きが、西洋指向組に席巻された歴史とみている。 それは当サイトも同意する。 東京芸術大学ができたとき、西洋絵画や彫刻を扱える人材がおらず、伝統的な職人たちを起用したのは有名な話である。 最初は、日本画、木彫、工芸の三科しかなかった。 その教師だって全員が職人上がりだった。 彫刻科教授になった高村光雲など、仏像を彫る彫刻職人に過ぎなかったし、日本画の教授になった橋本雅邦だって狩野派の御用絵師だった。 当時の日本には、今いうところの芸術家などいなかったのである。 絵描き職人しかいなかった当時に、岡倉天心による欧化教育が模索されて、菱田春草や横山大観などが生まれてくる。 しかし、その後に西洋画科ができて黒田清輝や藤島武二、岡田三郎助などが、岡倉天心一派を追い出していく。 西洋化した部分が芸大を作ったと思ったら、もっと西洋化した連中が芸大を乗っ取ってしまったのだ。 こうしたプロセスを見るだけで、我が国の芸術運動にうさん臭さを感じるだろう。 土着派から出発した日本画の絵描きですら、その後は芸術家となっていくのは周知のことだ。 「洛中洛外図」と云うのは、京都の町の鳥撤図の一つの形式で、町の様子だけでなく、様々な人や風俗が描き込まれています。発達した過程を見ると、むしろ鳥瞰図の体をとった風俗画と言えそうです。 (中略) 屏風と云うのは大体、右と左、二隻で一双でして、昔はそれを間に挟まって見たそうです。ですから、屏風に描かれた京都の地図を部屋に並べて、その真ん中から見るという具合になる。いわば「3D」的な空間性を持っていました。 単純に見ると、上が東だったり、西だったりと方角は絵によって異なり、しかも微妙にずれているものですから、嵐山と桂離宮が同じ横線上にあったりと、今の地図を見慣れている人間には、どうやっても分からない。けれども、この「洛中洛外図」が間に挟まって見られていたのだとすれば、納得がいきます。P130 家具調度に類した屏風が、ガラスの向こうの芸術品となってしまったのだから、その変質たるや凄まじいものがある。 しかし、<芸術>は所詮借り物である。 日本の美術界は土着派からの遺伝子を受け継いでいるから、芸術とは掛け離れたヘタウマの流行だったりと、ときどき職人的な部分が顔をだしてくる。 そして、筆者のように油絵を専攻して大学院まで終わった者が、大和絵や浮世絵を取り込んでいる。
もちろん、海の向こうに正解を求められなかった庶民たちには、フラストレーションが鬱屈している。 正解はつねに西洋を知っていたお上から与えられてきたから、最後の所でお上を信じることができず、それでいて保守を名のる者が土着派に見えてしまうのだ。 明治の開国と、敗戦後のアメリカ化によって、我が国は二度も正解を押しつけられてきた。 しかし、正解を辿ってきたら戦争になってしまったのだし、現在のような不景気なってしまった。 そうした空気を敏感に察知している庶民は、見せかけの土着派=保守派に、つい転んでしまうのだ。 現在の保守派は、決して日本の伝統主義者ではないし、土着派でもない。 筆者は最後に河鍋暁斎、月岡芳年それに川村清雄をとりあげて,日本美術史を閉じようとしている。 そのなかで、河鍋暁斎について次のように言っている。 (河鍋)暁斎の「大和美人図」を見ると、袖口をこちらに見せた左手で、自分より後ろにある柱に触れる人物が措かれています。実際にそんなポーズをとると肩がはずれてしまいますが、パースを「とれない事ができる」暁斎の画空間では、こんなポーズも余白も自然に収まるのです。 今の世に暁斎をつれてきても、彼は一つも困らないのではないでしょうか。日々起こる事象や、人間存在の深みを彼の筆で描き出してくれる事でしょう。彼の方法論は何一つ無効になっていないのです。 こういった内発性の高い反応を残した人を美術史の真ん中に据えられなかった不幸を、私たちはよくよく考えてみなければなりません。P230 これを日本回帰と言わずして、何と言ったら良いのだろうか。 筆者も認めるように、筆者のように油絵を選ばずに、日本画を選んだ人たちが如何に苦闘してきたか、イヤと言うほど知っている。 しかし、膠と胡粉の日本画では超高層ビルも建たなければ、新幹線も造ることはできなかったのである。 日本画には西洋からの正解がなかったので、表現の立脚点を求めて悪戦苦闘してきた。 しかし、ボクたちは日本という土地の上に生き、日本語を遣って生きている。 そのこと自体が五重塔も造ることができるし、茶室を造ることもできる保証なのである。 伝統と俗称されるものを保存しなくても、日本語を話し日本に住む限り、いつでも伝統を造ることができる。 伝統は守るものではない。 生きていること自体が伝統そのものなのである。
だから今ある五重塔が焼失しても一向にかまわないのだ。 そこで家族である。家族に関しても、大家族から核家族へと西洋化された。 そして、今後は単家族化していくだろう。 現実に単家族が30%を超えるほど広範にうまれているが、伝統主義者は単家族を日本の伝統になると認めようとはしない。 それが言うところの伝統主義者なのである。 彼らは少しも土着派でもないし、伝統を重んじている人でもない。 自分の好みを伝統と言っているに過ぎない。 筆者は<悪しき「不遇の芸術家神話」>と言うくらいだから、表現者と時代の関係をよく判っている。 だからこそ知らずのうちに日本回帰してしまうのだろう。 この本が売れることは、庶民にフラストレーションが溜まっている証である。 暗い時代の予兆を感じた。 (2008.7.3)
参考: ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994 山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006 足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005 三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003 浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005 山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000 菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002 有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005 佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001 管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007 浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004 藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001 ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008 小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987 D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004 河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004 河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009 加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版会、2002 桜井哲夫「近代の意味-制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 M・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫
|