著者の略歴−真壁智治−1943年生まれ。プロジェクトプランナー。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業後、東京拳術大学大学院美術研究科建築専攻修了。同大学助手を経てプロジェクトプランニングオフィス「M・T・VISIONS」主宰。「建てない建築家」を標榜し、広汎な知己力と旺盛な創像力を駆使して、戦略的視点に立つ都市、建築、住宅分野のプロジェクトプランニングに取り組む。2006年、建築家と取り組む「くうねるところにすむところ」シリーズで第2回武蔵野美術大学芦原義信賞を受賞。著書に、『アーバン・フロッタージユ』(住まいの図書館出版局)、『感応』(用美社)、『家のワークショップ』(企画・監修、ワールドフォトプレス)、『これからのくらしとあかり』(企画・監修、エクスナレッジ)などがある。 工業社会から情報社会へと、時代は質的な転換をしている。 そのため、家族の形も、核家族から単家族へと変わるというのが、当サイトの主張である。 情報社会への変化は、家族の形にとどまらない。 デザイン(芸術といっても良い)にも、変化の波は押し寄せている。 本書はそれを<カッコイイ>から、<カワイイ>への変身だという。
農業が主な産業だった時代、デザインも農業的な特徴があった。 圧倒的に安い労働力を背景にした、熟練した手作業による緻密で具象的なデザインが、王侯貴族たちに愛でられた。 ヨーロッパの手工業だけではなく、それは世界中で共通であった。 我が国でも、気の遠くなるようなほど、手間をかけた作品が残っている。 農耕社会つまり前近代のデザインとは、手の込んだ様式をもった装飾だった、といっても良い。 それらは無名の職人の手によってなされ、王侯貴族ならびに教会によって所有された。 しかも、それらの作品を作るためには、膨大な修業期間が必要で、多くは徒弟制度に支えられた職人集団が作った。 しかし、工業社会の近代にはいると、事情は一変した。 曲線を多用した細密なデザインが影をひそめ、直線などを多用したより抽象的で、大量生産に向いたものとなった。 バウハウスなどが有名だが、工業向けのデザインを称して、モダンデザインといった。 モダンデザインは、工場生産によって大量に作られ、持ち主も王侯貴族から庶民へと移動した。 近代の美は、<モダン デザイン>として謳われ、その粋は<グッド デザイン>と賞された。 しかし、近代の前途に疑問が投げかけられ、脱近代とか脱工業社会とか言われるようになった。 すると、<グッド デザイン>が人々に息苦しさを与えるようになった。 少なくとも、モダンデザインがもっていた、完成感、整然感などからくる秩序感に、疑問が投げかけられ始めた。 モダンデザインは<美>を最高基準とし、神に連なるものですらあった。 前近代では、職人たちが芸術やデザインの仕事を担ったから、作家という個人が登場しなかった。 しかし、近代になると作家という個人が、芸術やデザインを担い、神に代わる創造の担い手になったのだ。 神への奉仕から自由になり切れていなかったので、身近な細々したものではなく、荘厳な秩序感を良しとしたのである。 近代が西洋の時代であり、男性の時代だというように、モダンデザインも男性のデザインだった。 しかも、西洋文明を作った白人男性のデザインが、モダンデザインだったのである。 だから、アフリカやアジアなどの民族芸術は、外部のものとして認識され、モダンデザインを覚醒させる働きはもつが、モダンデザイン以外のものと見なされてきた。 西洋に住む白人でありながら、近代で排除された人間、それは女性だった。 その女性たちが、反逆の狼煙を上げたのは、1960年代のフェミニズムだとは何度も言ってきた。 いよいよ女性の台頭が、デザインの世界にも波及してきたのだ。 それを<カワイイ>と本書はいう。 「美しい」という感性は、自然に、自身の内に無意識に発生する情感の部分もあろうが、その根底にはあくまでも「美しい」に対する解釈や素養、学習が必要となるものだ。だから「美しい」は一度頭を経ての感性といっていい。例えば、「走る姿」を美しい、と感じるとする。それは走る姿に対するバランス、秩序感のようなものや、その軽やかさのようなものに対して美しい、と感じるのだろう。(中略) 走る姿からカワイイを感じる場合は、そうした秩序感の世界とは全く別の、感性の視点から生まれてくる。 一生懸命走る姿、間の抜けた走り方、ピヨンピヨンする走り方、楽しそうに走る姿など、走る表情を一瞬に見分けて、カワイイと判断する。カワイイは心に直結して判断され、判断に迷いは生じにくい。 それは対象との生命的な共感から派生してくるものだからだろう。 この価値軸は、過激なもの、破壊的なもの、暴力的なもの、権力的なもの、権威的なもの、威圧的なもの、横柄なもの、欺瞞的なもの、硬質なもの、危険なもの、正統的なもの、独善的なものに対しては、直ちに「ノン」と発する。P23 カッコイイも何が格好いいのか、一言では説明しがたい。 特に我が国では、デザインなのだから感じるものであり、説明するものではないとすら言われた。 しかし、モダンデザインは言葉で説明できるのだ。 西洋でのデザイン教育の場では、デザインを言葉で説明させる。 それがプレゼンテーションと呼ばれて、プレゼンテーションが下手だと、いくらデザインが良くても採用されない。
美しさは教育された結果、教養やセンスとしてエリート集団には共有されていた。 だから、美を基準とするかぎり、エリートの支配を内包するので、モダンデザインはどうしても息苦しいものになってしまう。 おまえは美が分からないだろうという、排除の論理が知らずのうちに働いているのだ。 カッコイイ美は、美から排除された立場に立つと、暴力的に登場することになる。 <過激なもの、破壊的なもの、暴力的なもの、権力的なもの、権威的なもの、威圧的なもの、横柄なもの、欺瞞的なもの、硬質なもの、危険なもの、正統的なもの、独善的なもの>を拒否する感性というのは、まさに現代社会のものだろう。 既成の権威、いいかえると美のエリートから差し出されるものは、カッコイイ装いをまとっている。 そうした姿とはまったく異次元の判断を、グッドデザインに対置するようになった。 それがカワイイである。 いままで、カワイイなる価値観は、捕らえどころがなく、説明しがたいものだった。 しかも、頭の悪そうな女子大生などが使うがゆえに、価値の低いものだとされてきた。 しかし、情報社会の価値観は、工業社会の価値観と違って当然である。 前近代から近代へと、人間が生まれ変わったように、近代から後近代へと人間生まれ変わっても、何の不思議もない。 カワイイが定義できなかったがゆえに、価値が低いとされてきたのは、カワイイを測る方法が近代のスケールにのらなかったからだ。 カワイイを測る方法は、直感ではあるが、それは共有しうるものだ、という。 事実、カワイイ物とカワイクナイ物は区別しうるし、多くの人が同じようにカワイイと判断するものがある。 カワイサを定量的に提示して、本書は見せている。 モダンデザインは、機能や性能などの対象として把握される。 人間の外に価値があるので、物と人間とのあいだには距離感がある。 神への奉仕が美の至高だとすれば、美は人間から離れたものにならざるを得ない。 しかし、カワイイデザインでは、人間そのものから発している。 そして、人間のカワイイという感受を、そのまま肯定し、最高のカワイサを求めない。 つまり、決して神に近づこうとはしない。 カワイサは人間のもののままでとどまる。 だから、デザインされた物を介して、人間関係が広がっていく。 そのため、場合によっては擬人化されたりして、人と物との関係が近くなっていく。 モダンデザインとカワイイデザインにあっては、人とデザインとの距離感に大きな差異があることが分かっただろうか。このことは、少し視点を変えると、デザインと作家性という問題にも行き当たる。モダンデザインでは人とモノとの間に距離が生じているから、作家の存在がそのスキマに入り込んでくる。カワイイデザインでは人とモノが同一化してスキマがないから、作家性の入り込む余地が生まれない。つまり、モダンでは作家にフットライトが当たるが、カワイイでは作家はゴーストになる。あるいは、カワイイと感じることと、作家に対する理解とは必ずしも重ならないのである。P228 建築の世界でもガラスの多用など、建築自体の存在を消すようなデザインが流行っている。 これも物と人間の関係を考えると、実に興味深いものだ。 上記の流れの中で、本書は槙文彦の「代官山ヒルサイドテラス」と安藤忠雄の「表参道ヒルズ」を対置して、安藤建築の暴力性を断罪する。 安藤建築の強烈な秩序性、巨大さなど、少しもカワイサがない。 むしろ、安藤建築に危険性さえ見ている。 この感性は信じて良いと思う。 安藤さんのボクサー上がりという生い立ちや、もれ聞こえる仕事の進め方などを考えるとき、自然への配慮などといいながら、安藤建築はその理念において破壊的である。 同様に、妹島和世&西沢立衛の「金沢21世紀美術館」と黒川紀章の「国立新美術館」を並べると、当然のことながら前者に軍配が上がる。 豊かな社会では、もはや豪華である必要もないし、権威ぶる必要もない。 貧しい社会だったから、豊かであることが権威になったのだ。 豊かな社会では、人間が横並びになり、人間をそのまま肯定できる。 宗教は貧しさ感を麻痺させ、体制に従属させるための麻薬だったのだろう。 いま我々は、横並びの人間関係を映したデザイン手法を獲得しつつある。 「これカワイイね」 「うん、カワイイ」 という会話で、共感しあえる時代なのだ。 カワイイが近代の西洋文明の中心地ではなく、辺境部である日本から発したことも興味深い。 新たな文明はマージナルな地域から誕生するという法則のままだ。 神とは無縁の日本だから、神を引きずった近代から離れることができたのだろうか。 本書は、言葉にのりにくい<カワイイ>を、しかもデザインというこれまた言葉にのりにくい分野で、解き明かす試みを続けている。 若い女性陣たちの手助けがあったとはいえ、とても66歳の老人の仕事とは思えないほど、斬新な切り口である。 近代を、そして芸術やデザインを考える上では、必読であろう。 無条件で星を2つ献上する。 (2009.11.16)
参考: M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981 野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005 イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997 エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970 オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997 ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002 増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996 宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987 青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000 瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001 ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999 武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967 ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001 R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001 平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009 松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社) 匠雅音「家考」学文社 広井良典「コミュニティを問いなおす」ちくま新書、2009 黒川紀章「都市革命」中央公論新社、2006 真壁智治&チームカワイイ「カワイイパラダイムデザイン研究」平凡社、2009 木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009 アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003 三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005 ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000 柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001 山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002 ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005 網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993 R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000 クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994 ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001 谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001) シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001 エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999 村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986 吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982 ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001 富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001 大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998 エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991 リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982 柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001 江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967 エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998 オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995 小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995 佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009 佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009 S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980 北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000 デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003 藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 J ・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009
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