匠雅音の家族についてのブックレビュー    <歴史>はいかに語られるか−1930年代「国民の物語」批判|成田龍一

<歴史>はいかに語られるか
1930年代「国民の物語」批判
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著者:成田龍一(なりた りゅういち)−NHKブックス、2001年   ¥1020−

著者の略歴− 1951年大阪市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。専攻は、近現代日本史。現在、日本女子大学人間社会学部教授。著書に、『「故郷」という物語−都市空間の歴史学』(吉川弘文舘)、『総力戦と現代化』(編著、柏書房)、『東京都の百年』(共著、山川出版社)、『戦争はどのように語られてきたか』(共著、朝日新聞社)、『歴史学のスタイル−史学史とその周辺』(校倉書房)など。
 1930年頃のわが国で書かれたものが、排他的な「国民の物語」だった、という。
しかも、国民の定義を欠いたものだったといって、筆者は過去の書物を批判する。
「歴史」「戦争」「現場」の語りと、3つに分けて論を展開する。
「歴史」では「夜明け前」を、
「戦争」では火野葦平の兵隊3部作と林芙美子の従軍記を、
「現場」では「小島の春」「女教師の記録」それに「綴方教室」をとりあげている。
そして、それらの中に共通して他者を見る目が存在し、その目は国民国家からのものだ、といって批判するのである。
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 人はものを書くとき、自分の立場を離れることはできない。
日本語で書けば、日本語がもっている資質を、不可避的に内包してしまう。
1930年代当時の著作を、筆者は「国民の物語」だと批判するが、本書の立場だって現在の「国民の物語」そのものである。

 筆者の視点は、現在のわが国の状況から一歩も出ておらず、
そうした意味では1930年代に活躍した文筆家たちと、まったく変わりはない。
むしろ当時の彼らが、表現に大きな拘束をはめられていたことを考えると、
筆者の発言は何と生ぬるいものだと感じる。
筆者は本書で、近代批判をやっているつもりかもしれないが、本書の次元では近代を語ったことにはならない。

 史料そのままでは歴史とはならない。史料を出来事の痕跡と認じてそこに解釈をほどこし、さらに叙述をおこなうことによってはじめて歴史は誕生する。<なに>を選択し、<いかに>解釈し、<どのように>記述するかが重要ということであり、換言すれば、歴史叙述にあたってはどのような「物語」を構想し、いかなる作法でその「物語」を叙するかということがポイソトとなる。P32

と言っていながら、
過去のことは理解できても、今の自分が現在の物語のなかにいることには、まったく無自覚である。
だから、1930年代といった過ぎてしまった時代設定なら、過去の人を気軽に批判できるのである。

 島崎藤村といえば、名家の出である。
貧しかった当時にあっては、物書きの多くが有産階級の出身だった。
彼らの出身からくる限界は、あって当然である。
そのなかで、彼がどれだけ社会を冷静に見ようとしたか、それが語られる必要があるだろう。
むしろ、戦前に国民の物語から逸脱していた部分をこそ、評価すべきである。

 過去の文筆家に、現在のような目がなかったと言っても、詮方ないことである。
彼の欠点は国民の欠点だった。
むしろ、彼がなぜあんなに読まれたのか、それを解明すべきである。
彼の差別意識はすでに語られており、筆者がわざわざ持ちだすまでもない。
 
 維新期の公/私をめぐる出来事を語るとき、藤村は1930年代のジェンダーをなぞるにとどまり、ジェンダーの編成とそれを前提として成立している社会に亀裂を入れ分裂をもちこむ可能性を、自ら回避してしまう。逆にジェンダーをより強化する方向へと物語を転回してしまうのだ。P97

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 上記の文章は、これで何を批判したつもりなのだろうか。
1930年当時には、ジェンダーという概念は存在せず、男女ともに男尊女卑を信じていた。
男尊女卑が社会の常識だった。
ジェンダー概念が普及していたのに、それに無自覚だったという批判はなりたつが、
その時代に存在しない概念を使っていないと言うのは、暴論というか言いがかりに過ぎない。
ジェンダーは今日でも充分に定義された言葉ではなく、
むしろきわめて政治性の強い言葉である。
イデオロギッシュな言葉を使った発言は、現代社会がよく見えていない証明である。
だから、ジェンダーという未消化な言葉を使うのである。

 他者が内部化されていないという批判は、本書を通じてあちらこちらに顔をだす。
いわば自己相対化が不充分だというのだろう。
自己相対化は、現在の我々ですら不充分であり、近代化の未成熟を示すものなのだ。
しかし、戦場での風景は、自分と友軍以外は、すべてが他者となるはずで、それは機動隊とでさえそうである。

 敵対する機動隊は物にしか見えないし、
機動隊の個人個人への思い入れなど湧きようがない。
機動隊も人間だから、敵なる人間を内部化せよと言われても、難しいものだ。
ましてや戦場では命のやり取りをしているのだ。
中国人を外部としてみる、それが戦場だろう。
筆者には想像力がない。

 「私は悪魔になつたのか」。だが、火野の思索は自らの「悪魔」性についてのものであり、中国兵への共感ではない。自己の探究と救済のための素材として中国兵捕虜の「斬首」がもち出されているにすぎない。『麦と兵隊』において、中国兵は捕虜でなければもっばら死体として描かれ、モノあるいは武装を解除された非力な存在としてのみ扱われ、つまりは他者として描かれていた。P146

 闘うことを運命づけられた人間に、
殺す相手も血の通った人間だと想像せよとは、何と酷であろうか。
こうした目で見れば、どんな聖人君子だって悪人になってしまう。
筆者は、歴史は現在から読み込まれると言ってながら、
それが何のためにかを問おうとしない。
だからジェンダーなどといった言葉を平気で持ちだすのである。

 林芙美子の戦場体験記にも、女性は二重に戦場の外部にたつという。
しかし筆者は、なぜ林が武器を持って闘わなかったのか、とはさすがに問いはしない。
ベトナム戦争では、女性たちも闘ったのだから、女性だって戦闘可能である。
本書でジェンダーを持ちだすのは、筆者の安全な立場を示しているし、
思想的怠惰を物語る以外の何物でもない。

 <「衛生のまなざし」という暴力>なる1節があるが、この視点には驚かざるをえない。
もちろん、非衛生な生活をしている人に、衛生思想を伝えるのは抵抗がある。
日常の習慣を変えるのは、誰にとっても困難事である。
しかし、近代の衛生思想によって、寄生虫が減ったり、
子供が死ななくなったり、霜焼けやあかぎれが直ったりすれば、人は抵抗しながらもそれに従う。
抵抗にあうことをすべて暴力と呼んで否定したら、わが国はいまだに平均寿命が50才くらいだったろう。
そして、武士や貴族が威張っていたに違いない。
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
奥地圭子「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998  
広岡知彦「静かなたたかい:広岡知彦と憩いの家の30年」朝日新聞社、1997
クレイグ・B・スタンフォード「狩りをするサル」青土社、2001
天野郁夫「学歴の社会史」平凡社、2005
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社、1988
ボール・ウイリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996
寺脇研「21世紀の学校はこうなる」新潮文庫、2001
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991

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