匠雅音の家族についてのブックレビュー    学校は工場ではない|ユルク・イエッゲ

 学校は工場ではない お奨度:

著者:ユルク・イエッゲ  みすず書房  1991年 ¥2781−

著者の略歴−スイス・チューリッヒ州の小グループ別学校教師。著書に「愚鈍は習得される」(Dummheit ist lerbar,1976)、「論文・講演集」(Nachdruck.Reden Aufsatze usw.Zytglogge,1980)他がある。
 学校教育は近代になって始まったもので、江戸時代には学校などなかった。
あったのは武士たちの子供のための藩校と、都市の私塾だけだった。
もちろん義務教育などではない。
多くの農民たちは、教育とは無縁のまま一生を終えた。
しかし、文字が読めない農民のなかにも、立派な人格者はいた。
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学校は工場ではない

 学校では、近代人を作るために、一生懸命に教育がなされている。
社会人になって働けるように、小学校から大学まで教育が行われている。
しかし、何のための教育だろうか。
誰のための教育だろうか。
文字など読めなくても、生きていけるし、難しい数学など知らなくても、まったく困らない。
ましてや使うかどうか分からない外国語など邪魔なだけだ。
 
 江戸時代まででも、教育はあった。
その教育とは働きながら、生きる術を覚えるものだった。
農家なら田や畑で身体を動かしながら、農業を覚えたし、職人は年期奉公で、商人は丁稚奉公で、仕事を覚えた。
かつては教育の機関が独立しておらず、働くことそれ自体が教育だった。
だから若年者はいたが、青春という概念もなかったし、生きる悩みにおそわれることもなかった。

 近代になると、働きながら学ぶことはできなくなった。
働く前に、働くための学力を身につける。
それが近代の教育である。
だから、働くことなしに、学ぶという教育が始まったのである。
ここでは、近代の生産つまり工業に適した人間を作るのが目的だった。
自然を相手だった前近代とは違って、人間の作ったシステムに人間を適応させるようになった。

 そのシステムとは、命令を出す少数の人と、その下で働く大量の歯車で成り立っていた。
歯車にするために、教育を通じて人間を削っていった。
より良き歯車になるように、学校はしのぎを削った。
その結果、社会の生活水準が上がり、多くの人が快適に暮らせるようになった。
しかし、人間を歯車にするのは、残酷なことである。
近代は裕福ではあっても、逸脱を許さなくなっていた。

  標準的な人間を想定し、標準的な人間になるために、子供たちには「発達段階」と「カリキュラム」が与えられる。
子供たちは、つねに標準的な発達段階と比較される。
そういった意味では、近代とは残酷な時代である。
標準が子供たちを、いつも測っており、標準から逸脱すると見捨てられる。

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 子供たちが、彼らの教育の過程の中で「発達段階」や「教育課程」に縛りつけられたり、自分たちの感情を抑えつけなくてはならなかったり、孤独を感じたりする原因、要約すれば「彼らが小さい歯車にされる」原因は、彼らを教育する人たちの悪意、もしくは無関心にあるのではなくて、「不安」である。つまり、介入や規制が行なわれなければ、あらゆることが堕落するのではないかという不安である。そこで規範は生命以上に重視される。たとえば、多くの人たちの中にはこんな気持があるもしもあらゆる重圧(能率万能主義や業績至上主義からくる心理的圧迫等)がなくなってしまったら、人間はのらりくらり暮すだけで終わってしまうかもしれない。しかし、もちろんそれはあくまでも、人々の気持であって、間違いなくそのようになると断言できる者なんか一人もいない。それどころか、人間は決してそのようなものではないというかなり確実な証拠もある。にもかかわらず、そのような不信感、そのような不安が跡を絶たないのだ。P68

 貧しかった時代には、豊になることがすべてを正当化した。
怠けると貧乏なままだぞ、という脅しが、子供たちを勉強に向けさせた。
かつては飢餓におそわれ、人は餓死さえした。
とにかく、前近代は貧しかったのだ。
だから、豊かさにつながる学校は正義だった。
しかし、豊かな社会になると、学校の存在は必ずしも正義ではなくなった。

 標準的な人間をつくろうとする学校は、人間を鋳型にはめる場でもある。
歯車にするとは、人間の自由を削り取ることでもある。
当然痛みがともなう。
豊かな社会になるまでは、その痛みは無視されていたが、いまでは痛みを痛みとして、声に出せるようになった。
本書のタイトル「学校は工場ではない」が物語る。
  
 学校というものは、わたしたちが知っている限りにおいては、工場労働によって、もう一つ別の問題を解決しようとする試み以外の何ものでもない。もう一つ別の問題とは、「人間は情緒的・精神的に成長するものだが、学校は−家庭も加わって−この成長をどのように支持すべきであるか?」ということである。だから家庭でも、「産業的原則」が応用されることになる。(中略)
 工場によく似た学校−この印象は、近づいてよく見れば、いっそう強まってくる。「生徒という材料」は、いろいろな観点で分類され(学年・能力等々)、それぞれ、まとめて最適の生産部門に回される(学級)。これらの生産部門は、特殊技能を持った熟練工により、従来の作業工程に従って指導されることになる。材料が複雑かつ多様になるにつれて、指導に当たる熟練工の特殊技能のレベルは高くなり、従って給与の額も上がってくる。P183


 学校とは本質的に工場ではないだろうか。
どんなに少数学級にしても、工業社会の労働者を作ろうとするかぎり、工場にしかならない。
なぜなら、工業社会のエネルギーは工場が作っているのであり、工場に適合的な人間が求められている。
とすれば学校は歯車つくりにならざるを得ない。
 
訳者があとがきで、次のように書いている。

 本書の中で著者イエッゲが中心的に取り上げているのは.今日の文明的・産業的社会構造の中で無反省に実施される画一的教育の問題である。画一的な「発達段階表」を見て一喜一憂する親たちの育児、画一的な「偏差値」や「カリキュラム」だけをふりかざして生徒たちを評価する学校教育−1このような育児・教育は、幼児や生徒たちをいたずらに不安に追いやり、その結果、幼児や生徒たちの人格までも歪めてしまうことになると、イエッゲは断定する。P231

というが、学校は画一的な偏差値教育を、越えることが可能なのだろうか。

 情報社会になって、ますます頭脳の優劣が問題になっていく。
たしかに画一的な教育をしていると、国際競争には負けるだろう。
しかし、我が国は工業社会以外の社会を、想像できるのだろうか。
物造り以外で、豊かな社会をつくることはどういったことか。
「学歴の社会史」などと読み比べるとき、それがイメージできていないように感じる。

 工業社会の克服は、けっして焼き畑農業に戻ることではない。
長寿を保ったままで、豊かな社会をつくるとは、今の日本には重い仕事に見える。
  (2009.8.30) 
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参考:
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998  
広岡知彦「静かなたたかい:広岡知彦と憩いの家の30年」朝日新聞社、1997
クレイグ・B・スタンフォード「狩りをするサル」青土社、2001
天野郁夫「学歴の社会史」平凡社、2005
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社、1988
ボール・ウイリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996
寺脇研「21世紀の学校はこうなる」新潮文庫、2001
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991

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