著者の略歴−1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良女子大学文学部教授。発達心理学,子ども学,法心理学の問題領域で,学と現実との接点を求める活動を進めている。著書に『発達心理学再考のための序説』『意味から言葉へ』『身体から表象へ』(ミネルヴァ書房),『ありのままを生きる』『自白の心理学』(岩波書店),『自白の研究』(北大路書房),『「私」とは何か』(講談社),『「私」をめぐる冒険』(洋泉社)などがある。 子供と学校について、はじめて納得できる著作にであった。 キレる子供とか、凶悪化する少年といって、現象面をうわべで撫でる筆者が多い。 そうしたなかで、本書は事件の深層に迫っている。希有の視点である。
大人たちは過去をひきずって生きているから、今や将来が見えない。 しかし、子供たちには今が見えすぎるのだ。 どんな生き物でも、環境に適応しなければ、生きていけない。 子供が変わるのは、環境が変わったので、それに適応するために変わっている。 新しい環境を、大人たちが理解できないだけだ。 筆者は、6年生の女の子が、同級生の女の子を殺した佐世保小学校殺人事件を、丁寧に分析していく。 そして、裁判所の作成した「家裁決定要旨」を読み込んで、こうした書類は事件から後付的に、被疑者を真犯人と暗々裏に決めた上で作成される、という。 そのため、犯人ならこうした性格が当然だろうといった、先入観によって書かれていくことに、警鐘を鳴らす。 殺人事件を犯す子供だって、殺人を犯すまでは、ふつうの子供である。 むしろ、想像力に富んだ感受性の豊かな、優秀な子供ですらある。 それが事件を起こす少し前から、正常とされる道から脱線していく。 じつは脱線も、適応の一種ではないか、とすら思う。 決定要旨はその前半で、女児の生来的な特性、女児の家庭の養育上の問題を指摘し、結果として女児は共感や表現の力が欠け、怒りに対処する仕方が両極的で、ときに解離状態になって「攻撃衝動の抑制も困難になる」というように、女児の人格特性をあげつらったうえで、後半で、その女児がホラー小説などの影響で攻撃的な自我を肥大させていたところ、大事にしていた「居場所」にA子さんが侵入したことで、女児は確定的殺意を抱き、計画的に殺害したのだという。P52
が、述べられている内容は加害者の性格を、事件から後でつくりだしたとしか言いようがない。 法曹界の人間が、事件の社会性を言いだしたら、処罰ができなくなる。 そのため、検事や裁判官といった人間は、事件をすべて個人に還元するように教育されている。 社会が悪いかも知れないが、ほかの多くの人は殺しておらず、殺したのはおまえだけだ。 責任をとってもらおう。 近代ではこれで良かった。 しかし、今の子供にたいしては、この論理が通用しなくなりつつある。 同級生を殺した女の子は、事件をおこす4ヶ月前に、次のような詩を自分のホームページに掲載している。 夕暮れの影が物からどんどん伸びる−−−− 逆光した建物が私の目を捉えていた。 空は満月が見え、星をちりばめていた。 くたびれたジャンパーを着た中年男性。 ベンチに座り足組みしながらケータイをいじっている女子高生。 おつかいのため片手にスーパーの袋をふりまわしながら帰っている小学生。 公園でイチャイチャしているカップル。 犬の散歩をしているおばさん。 手を繋いで歩いている幼稚園帰りだろう子供と薄く化粧をした二〇代半ばの母親。 すぐ暗くなったこの夜景に街にはイルミネーションが灯り、明るかった。 橋がかかっている川には、自分の顔が見える−−− そして、周りの建物もぼんやり見えていた。 のびた影、夜空の夜景が皆の心をやさしく包んでくれる−−−−− すべてはこの時代のごく平凡で日常的だが、 とても楽しい だけれど、今、この時、この時間、貧しくて、苦しんでいる人間がいる。 この時間で色々な状況の人はいるだろう。 戦争をしている人々、殺され息を引き取った人々、もがき苦しんでいる人々、 これがいつもの時間、日常かもしれない。 皆がこのつながっている「地球」にいる。 忘れないで欲しい。 今この時間「苦しみ」の呪縛を解き放てない人々を P31 <夕暮れの影>と題したこの詩を読むかぎり、共感や表現の力が欠けてもいない。 むしろナイーブで優秀そうな子供だと感じる。 子供の問題は、子供個人にあるのではない。 近代の法律は、子供を責任無能力者として、法的責任を問わないとした。 しかし、この擬制が破綻している。責任を問えないはずの者が、有責な事件をおこす。 社会はそれでもなお、個人的な問題へと、置き換えていってしまう。 これでは同種の事件が、続発するに決まっている。 大人たちは現実を直視するのが、怖いのだろう。 怠惰な大人たちには、今のままのほうが安楽なのだ。 現在の制度には、大きな利権がからんでいる。 大人たちは現在の制度で儲けている。 すでに利権の構造で、がんじがらめなのだ。 だから社会の制度を変えようとはしない。 本書は、学校という場の嘘を、きちんと筋道をたてて暴いてくれる。 まったく感動的なほどだ。 学校が機能不全、ここまでは来た。 さて、今後の学びは、どう構築されるのだろうか。 筆者にもう一がんばりをお願いしたい。 (2007.04.01)
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