匠雅音の家族についてのブックレビュー    子どもという思想|矢野智司

子どもという思想 お奨め度:

著者:矢野智司(やの さとじ)−玉川大学出版部、1995 ¥2、400−

著者の略歴−1954年神戸生まれ。京都大学教育学研究科博士課程(教育学専攻)中退。大阪大学人間科学部助手(人間形成論議座)、香川大学教育学部助教投(幼児教育・教育哲学)を経て1992年より京都大学教育学部助教授(教育人間学講座)。共編著「教育のバラドックス/バラドックスの教育」東信堂、1994年
 子供はいつの時代にも子供であり、子供という生き物はずっと変わらなく存在し続けてきた、と考えた時代もあった。
しかし、フィリップ・アリエスが「子供の誕生」を書いてから、事情は変わった。
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子どもという思想

 子供は成人から生まれ、成人の保護下で育つ。
誕生直後は、誰でも養育されなければ、成長できない。
そのため、子供は子供だと思いがちである。
しかし、子供を見る眼は時代によってひどく変化したのだ。
それは池波正太郎氏など学者ではない人たちが、直感的に分かっていたことだった。

 池波正太郎氏は、未成年であっても働いていれば、煙草をすっても良いと、言ったことがある。
つまり、かつての丁稚さんなど、15才くらいで大人と同じ仕事をしていた。
彼らに仕事だけ大人なみにあたえて、楽しみを与えない。そんな理不尽なことはない、と池波正太郎氏は言ったように記憶している。

 子供が子供として、成人からの保護の対象になったのは、近代に入ってからである。
それは子供に対する性交が、何歳から始まったかを考えれば、簡単に想像がつく。
12才とか13才で女性は結婚することさえあった。
この年齢は、現在なら小学生である。

 「強姦の歴史」を読むと、前近代にあっては年少者に対する強姦と、成人女性に対する強姦が同じに扱われていたことが判る。
小さな子供ですら、成人男性を性的に誘惑するというのだ。
つまり前近代にあっては、子供は小さな大人と見られた過ぎない。
成人からの養育の手を離れると、ただちに大人として扱われた。
それは男女を問わなかった。

 筆者は教育学の見地から、子供なる存在を考えている。そして現代では、

 子どもは「労働を免除される」「性に関することから隔離される」あるいは「学校に行く」という形で、大人によって歴史的に構成された場の許す幅においてしか生きることができない。大人によって解釈された子ども期に応じた場が子どもに与えられ、その場のなかで子どもは子どもらしさをあたかも「自然」であるかのように獲得してしまう。そしてこの循環にたいして子どもを対象とする諸科学、たとえば教育学や心理学は、この循環の構造を解明することよりは、この構造自体を強化してきたといえる。P30

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と見なしている、という。
当然の押さえ方であろう。
そして、前近代では子供がどのように扱われたかを、N.エリアスに求める。

 二重の世界に分裂した自己の在り様、秘密に伴う罪悪感、このようなことは中世の「子ども」においては考えられないことであるにちがいない。中世においては、袖で洟をかんだり、人前で放尿したりすることがそうであったように、性もまた羞恥されるべきものとは考えられでおらず、「子ども」の前で秘密にされねばならないとも考えられてはいなかった。エリアスは、「文明化の過程」(1969年)のなかで、このような羞恥心とそれに基づくマナーが成立する以前の姿を描いている。このマナーの成立が予どもと大人との距離を拡大させたのである。P42
 
 今日では聞くことが少なくなった猥談だが、かつては子供がいても平気で口にした。
また、性的な言葉は男性の専売特許ではなく、女性もおおいに口にした。
性が恥ずべきものでなかったのは、わが国でもまったく同様だった。
性的なことに起源をもつ言葉は、今でもたくさん使われている。

 一度は、大人と子どもに異なったマナーを強制した。
が、近代が進んでくるとマスメディアなどの発達により、大人と子どもの垣根が崩壊し始めた。
ここで筆者は、社会の分析に進むのかと思うと、教育の世界へと舞い戻って、次のように言う。

  学校の運動行事のなかの運動会、体育祭が子どもにとって優れた身体経験となりうる空間的要素が問われなければならない。P75

 これ以降、フローベル、ロバート・オーエンの教育思想を散見して、デューイの教育論へと入っていく。
上記の3者は、すでに大昔の人である。
彼らの思想を今日に生かす、もしくは読みなおすことにどれほど意義があるのだろう。

 情報社会化で、性別役割とともに、年齢秩序が崩れていることに気がつけば、学校空間云々といったのんきな論になるだろうか。
学者たちの論は、過去の偉人を論じ直すといったかたちで展開されることがおおい。
しかし、それが許されるのは、今日的な問題に解答を与えられるときである。
学校を工業社会の枠組みのなかに置いたままで、その再生を図ることはもはや不可能になっている。
<子供>という括りそのものが、すでに破綻している、と考える必要がある。

 筆者はあとがきで、教育思想といっているが、筆者のいうそれは西洋のものだけである。
教育思想はわが国にもある。
わが国の前近代、それに近代と問題は山積みにされている。
西洋思想だけではなく、わが国に固有の現状へと、分析のメスをいれて欲しかった。
思想は現実に届いてこそ、思想たりうるのだから。
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995  
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年


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