著者の略歴−1954生まれ。ミュンヘンのテレビ局でフリーのジャーナリスト、ミュンヘン大学で研究助手などをへて、1983年から『今日の心理学』誌の編集者。『うつ病−誤解されている病気』1991、『エゴイズムの罠』1992など心理学関係の著作が多く、ジャーナリスティックな彼女の目配りのよさには定評がある。 子供は自我が形成されていない。 成長の過程でさまざまな刺激を受けて、人格ができあがっていく。 刺激が強すぎてくっきりと残ってしまうときがある。 その記憶が好ましいものであるときは、何も問題はない。 しかし、好ましくないときは、それがトラウマとなって、当人を苦しめる。 そう考えがちだが、実は違うという。
成人した現在が幸福であれば、子供時代など振り返りはしない。 むしろ困難だった子供時代にもかかわらず、現在の幸福を入手できたことを感謝しさえする。 そして、厳しかった子供時代を懐かしむ余裕すらある。 親に虐められたにもかかわらず、現在が幸福だと思えば、虐めた親にも事情があったのだろう、とすら思える。 しかし、現在が不幸だと思うと、不幸の原因を探して、子供時代へとさかのぼる。 現代のトラウマ療法の核心は、現在の原因は過去にあるとする因果論である。トラウマ療法はすべて、フロイトの幼児期トラウマ理論にもとづいているのだが、その幼児期トラウマ理論によれば、トラウマをひきおこした経験を子どもが抑圧するのは、その経験にまつわる葛藤や不安に子どもが耐えられないからである。そして〈子ども時代〉のその経験は、長期にわたって、災いをひきおこしかねないので、大人になったときに思い出して検討されるということがない。フロイトがこの理論を提出したのは100年前だが、今日ほどこの理論が愛されたことはなかった。P2 子供を虐めたり虐待することを肯定しているのではない。 母殺しが進行しているので、今後ますます幼児虐待が増えるだろうが、女性を虐待するのと同様に子供を虐待することは絶対に許せない。 しかし、トラウマとは子供にある話ではない。 過去をもたない子供が、トラウマを語るはずがない。 問題は成人の話である。 しかも、ある程度裕福な大人の話である。 現在が不幸せなのは、あなたのせいではない。 悪かったのは、他に理由があった。 それは親からの虐めや、性的な虐待が原因だという。 人生の重荷を、過去のせいにして軽くしてくれるから、トラウマ理論は歓迎される。 自分の人生の決定者であるはずの、自分の責任は問わず、自分を犠牲者に仕立ててくれる。 自分は犠牲者=弱者だから、不幸でも仕方ないのだ、と言ってくれる。 自己責任を回避してくれるから人気があるのだ、と本書は言う。 自分を犠牲者だ、弱者だという人は、他人の現実にはあまり興味がない。 たとえば、女性が差別されているから不幸だという女性は、不幸な男性には想像力が届かない。 現在の不幸を自分以外の理由に求めても、現状は変わらない。 まして過去をほじくりまわしても、現状が変わるわけではない。
過去とは、有益な経験がぎっしり詰まった「貯蔵室」なのである。現在かかえている問題のために、その経験を使うことができるのだ。過去をふり返ることは、問題を探すためではなく、自分の能力を発見したり、以前はどうやって問題を解決したかを知ることに役立つ。苦悩や運命に見舞われたら、トラウマ理論が言うように、かならず深い傷だけをうける、というわけではない。苦悩や運命に挑戦されて、巨大な力や能力が呼び覚まされることもあるのだ。P224 過去=歴史の探求は、未来のためである。 しかし、記憶は怪しいものだ。 ましてや子供時代の記憶は、はるか遠くにある。 子供時代に過ごした場所を、成人してから訪れると、あまりにも小さかったり狭かったりすることに驚く。 アメリカでは、怪しい記憶にたよったトラウマ治療によって、親子が裁判になり、親の生活がずたずたになってしまう例すらある。 子供時代の記憶をもとに、親を責められたら、親は立つ瀬がない。 裕福であればあるほど、不幸な子供の現状に親は心が痛むが、またその裕福さが裁判へとかりたてる。 トラウマ治療は、心理的な世界だから、個人の問題で語れる。 しかし、不幸感をもたらすのは、個人的な問題だけではない。 社会的な歪みでも、人間は不幸に陥る。たとえば、フェミニズムである。 社会と個人の位相の違いを知らないわが国フェミニズムは、社会的な差別でもって女性の個人的な不幸を説明したがる。 個人間の問題たとえば男女間の暴力は、男女差別と言わずとも傷害事件である。 とりわけ家庭内暴力は、男女問題というより家庭が内へ閉じこもってしまうことが原因である。 家が生産組織だった名残として、ある程度の家庭自治が認められていた。 それが民事不介入的なことにつながり、強者が弱者に暴力をふるう構造を許していた。 核家族は閉鎖的だったのである。 男女差別は撤廃しなければならない。 しかし、男女差別は社会的制度の問題である。 男女差別がなくなっても個別女性の不幸はなくならない。 むしろ男女が平等になると、女性は今まで以上に競争に追い込まれていく。 力のない女性にはますます厳しくなるだろう。 社会の歪みは、ますます個人をせめたてるが、社会は不幸感を解消しない。 近代は神を殺したので、自力で立たなければならなくなった。 自力で立つのは厳しいものだ。 つい誰かにすがりたくなる。 社会変革は必要だし、現状の不備な制度は多いに変えるべきである。 しかし、社会の問題と、個人の幸福感は別問題である。 本書はトラウマ理論批判の書である。 フェミニズムには論究していないが、わが国のフェミニズムにも大いに共通するところがある。 (2002.8.9)
参考: 高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006 デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995 ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997 編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995 ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、 杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980 矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004 浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005 本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005 広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997 高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002 服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005 塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972 ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 エリザベート・パダンテール「母性という神話」筑摩書房、1991 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
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