匠雅音の家族についてのブックレビュー    子どもが減って何が悪い|赤川学

子どもが減って何が悪いか! お奨度:

著者:赤川学(あかがわ まなぶ)  ちくま新書、2004年   ¥700−

 著者の略歴−1967年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科社会学専攻博士課程修了。博士(社会学)。現在、信州大学人文学部助教授。近代日本のセクシュアリティーの歴史社会学、ジェンダー論などを研究。著書に『性への自由/性からの自由』(青弓社)、『セクシュアリティの歴史社会学』(勁草書房)などがある。
 売らんかなの浅薄なタイトルだったので、手に取るのをためらったが、内容はまじめなものである。
男女共同参画と少子化を切り離して論じ、少子化を肯定するという筆者の姿勢は、昨今の風潮に反旗を翻すもので、内容は挑戦的なタイトルと偽りはない。
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 男女共同参画なる主張が、役所つまり権力側から言い出されて、ずいぶんと時間がたつ。
現状批判として出発したはずのフェミニズムは、いつの間にか権力と共闘しているように見える。
解放の思想であったはずのフェミニズムが、権力側の発言と同じだというのは、何だか奇妙な感じがある。
しかし、いまや男女共同参画に異を唱える者は少数だろう。

 筆者とて、男女共同参画に反対しているのではない。
ただ、男女共同参画と少子化は無関係だ、ひょっとすると男女共同参画がすすむと、ますます少子化が進むかも知れないと言っているにすぎない。
筆者の主張が、次にまとめられているので、引用する。

 序章から第4章まで、男女共同参画が少子化対策として有効ではないことを明らかにし、男女共同参画は少子化対策であるべきではないとも主張してきた。第5章では、少子化がもたらすデメリットを、出生率回復で克服するのではなく、低出生率を前提とした制度設計によって、社会全体でその負担を引き受けるべきと主張した。第6章では、少子化は生活や豊かさに対する期待水準の向上によって不可避的に生じるから、それは食い止めようもないし、期待水準を上げるような少子化対策はかえって逆効果と論じてきた。第7章では、子育て支援は、育てられる子どもの生存権という観点からのみ正当化されるべきであり、養育者のライフスタイルとは中立な支援のあり方を考えねばならないと主張してきた。P188

 筆者の主張には原則として賛成する。
男女共同参画は情報社会を生きていくためには、どうしても成し遂げなければならない。
少子化は、情報社会化がもたらしたものだとすれば、男女共同参画が進んだからといって、少子化が止まる保証はない。
本書が批判してやまないように、男女共同参画が実現すると、少子化が止まるような、通俗の言説はまやかしだろう。

 学者を名乗る者は、他の学者を名指しで批判はしないものだ。
が、この若い社会学者は、前田正子、白波瀬佐和子、伊藤公雄、鹿嶋敬、袖井孝子、遙洋子、古橋源六郎、芦野由利子、杉本貴代美、千田有紀、落合恵美子などと名前を挙げて批判している。
学者村からの嫌がらせや村八分をおそれて、一般書では批判する対象の名前を出さない人が多いなかで、実に勇気ある姿勢で好感が持てる。

 ところで最近の社会学は、意識調査をもとに論を立てることが多い。
調査が元になっているので、論者の主張があたかも事実であるかのように思われてしまう。
しかし、筆者も言うように、調査資料は処理の仕方によっては、結論は如何様にもできる。
サンプリングや因果関係の論証には、調査者の主観が入っているにもかかわらず、調査を基盤にすると説得力が生じると考えるようだ。

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 筆者は男女共同参画が、少子化対策として有効ではないことを明らかにするため、調査・論証のありかたに大批判を加えている。
両者が無関係であることは、この論証でよく分かる。
しかし、筆者の論も、結局のところ調査社会学の域を出ていないので、筆者の説に賛成できるかというと、いささか疑問である。

 少子化を問題にするときは、子供の意味が問われるはずだが、子供の社会的な意味に論述が及んでいない。
かつて大人にとって子供は不可欠だったから、子供を持つとか持たないといった意識が、生じる余地がなかった。
しかし、蓄財の完了や社会福祉の充実によって、個人としての大人にとっては、子供が必ずしも必要ではなくなった。
ここで少子化の要因ができた。

 筆者は子供の意味を問うと、価値判断の世界にはまりこむので、それは各人の価値観の問題だと言うであろう。
そのため、筆者は価値中立を保とうとしているのはよく分かる。

 特定の世代や特定のライフスタイルのみを重点的に支援する思想的根拠を見いだせない以上、制度設計は、特定のライフスタイルや家族像を前提にするべきではない。また低出生率を前提とした上で、少子化がもたらす負担を、特定のライフスタイルや特定の世代に集中しない形で分配すべきである。P209
 
と本書は主張する。
が、社会的な制度は無色のものではあり得ず、どんな制度を用意しても必ず思想的な裏付けがある。
そのため制度を論じる根拠は、最大多数の幸福追求に求めざるを得ない。
そこで社会的な制度と、産業構造との関連が問題になる。
しかし、筆者は調査社会学に止まろうとするあまり、産業構造との関連を考察しておらず、平等が不平等を招く逆説に陥っている。

 中立性原理を前提としているために、男女共同参画が主張される歴史的背景が無視され、なぜ少子化が起きたのかが考察されていない。
筆者は個人を尊重するせいか、専業主婦(夫)という生き方も、ライフスタイルの選択肢の一つして肯定されている。
しかし、税金を支払わない専業主婦(夫)をライフスタイルとして認めたら、国家が税金によって機能していること否定することになる。

 子供が働き手として、老後の保障として、不可欠だった時代には、大家族や核家族を生活基盤として男女が生きた。
この時代には、個人として存在する前に、家族人として存在した。
だから担税者は、家族を代表する人間だけでよかった。
専業主婦の存在が理念的に許された。
しかし、今後は個人が直接社会にさらされ、家族人である前に社会人となる。
だから全員が担税者となる。

 今後は、個人にとって子供は実利的に不要だが、大人の癒しとして、愛情の対象として存在する。
子供を愛育するためには、養育者が経済的に自立していなければ不可能である。
現実に専業主婦(夫)が存在したとしても、担税者でない存在を、養育者理念として認めることはできない。

 全員が担税者だという前提は、特定のライフスタイルに優先する。
担税者であって初めて、特定のライフスタイルの選択が許されるのである。
特定のライフスタイルを選択した結果、税金を支払わない存在でいることは許されない。
扶養される専業主婦が、子供を扶養することは、基本的な前提を欠いている。
個人化する社会では、全員が担税者となりうる制度の整備が、子供の誕生や養育を支える。
その意味では男女共同参画、言い換えると男女の社会的完全平等化が、少子化を止めるといっていい。

 本書の勇気は認めるが、男女の関係を現状の核家族的にしか、捉えていないと言わざるを得ない。
何世代かが同居した大家族から、核家族へと変化した歴史を見れば、家族のあり方=家族制度は変わり得るものだと認識すべきである。
つまり、核家族的な男女関係しか前提にしないのであれば、男女共同参画が少子化対策として有効ではない、と言い切っても良いだろう。
しかし、核家族が単家族となる視野を入れると、男女共同参画しないかぎり子供は誕生しなくなる。

 「性からの自由」や「性への自由」は、個人を発想の根元にしているはずである。
共同体の崩壊が個人を生み出しとすれば、情報社会化は個人化の徹底になる。
個人化や子供の意味の変化を考えずに、価値中立=中立性原理を唱えると、結局は大勢順応になる。
筆者の論では俗説を批判できたが、自説を構築したことにはならないように思う。
結果として現状維持的な結論になってしまう調査社会学の限界が露呈されている。
 (2005.03.09)

 追記:
 筆者も子育て支援が無用だとは言っていない。子育て支援の基準を次のように言う。

 子育て支援は、育てられる子どもの生存権という観点からのみ正当化されるべきであり、養育者のライフスタイルとは中立的な支援のあり方を考えなければならない。P188

 養育者が働きながら子育てをするか、子育てに専念するかといった大人側の事情ではなく、子供の生存権によって正当化される。
つまり子供はみな平等だから、どんな子育てをしようとも、平等に支援されるべきだということになろうか。
しかし、生まれた子供は養育する大人を選べないから、単親の子供と双親の子供を同じに扱うと、初めから不平等になってしまうのではないか。

 双親のもとでのみ子供は養育されるのではなく、単親も養育している。
子供に着眼するのは良いが、生まれること自体がすでに不平等の元にあれば、子供の生存権として一律の基準を設定できないのではないか。
ここでも筆者の関心が、現状の核家族に止まっているように思える。
筆者の本書にかける情熱を多とするので、疑問に感じていたことを追記してみた。
(2005.03.17)
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995  
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991


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