著者の略歴− 高齢化社会の到来といわれて久しい。 養護老人ホーム、特別養護老人ホームなど、老人を対象にした施設がたくさんできた。 様々な施設ができたのは良いが、私たち団塊の世代が死んでしまえば、それらの施設には空き室が氾濫するだろう。 しかし、そんな時になっても、筆者のかかわったケアハウスは、多くの人が詰めかけているだろう。
福祉に従事するのは立派な人だという建前から、わが国で福祉というと何となく胡散臭い印象がある。 そのうえ、福祉を恵んでやるから、受けている人は黙って好意を受けるべきだ。 そんな空気があって、私は福祉に何となくなじめない。 自治体が障害者同士を結婚させようとしてくれたり、知的障害者だから義務教育からはずしてくれたり、あげくの果てには福祉で儲ける制度ができたりした。 そうしたなかで、筆者は次のようにいう。 福祉は障害者や老人に屈辱を対価として差し出させておいて、何とも恩着せがましく、不十分でいいかげんなサービスを施し、施したものだけがいい気になっているものではないか。(中略) 群馬県やあるいは市の社会福祉協議会の主催する交流会、講演会、研究会等にはただの一度として出席したことはありません。法人や施設の長が集まり、互いに「先生」などと呼び合っているらしい懇親会の類はすべて欠席してきました。理事長や施設長というような偉い人をわたしは一人として知らないし、福祉の業界の、いつもネクタイを締め背広を着ている偉い「先生」達とは、決して(!)、絶対に(!)、交わりたくないと思っているのです。P10 若い頃には過激派だった筆者が、わけあって高崎市のはずれに「青風舎」というケアハウスを作った。 本書はその足跡と、思い出深い数人の入居者の面影、そして結果と展望を書き記したものである。 多くの老人施設は、1日ベッドに縛り付けられて、まるでブロイラーのように飼育されている。 そんなイメージがあるが、この青風舎は管理しないことをモットーにしている。 こうした建物を造るときには、管理しやすいように、出入り口は1つにして、一望監視がきくように造る例が多い。 しかし、この建物は違う。 門はないし、塀もない。 どこからでも入れるし、いつでも誰でもが、出入り自由だという。 この施設を主宰する筆者のスタンスが実に良い。
実際に施設を運営している人が、上記のような認識を持ち続けるのは、至難のことだろう。 フーコーの言葉ではないが、すべては権力関係である。 自分が権力ある立場にいると認識するのは、実に難しいことである。 老人のためを思って、弱者のためと親切心で、よかれという好意からの行為など、すべて権力の行使である。 国家だけが権力ではない。筆者はそれをよく自覚している。 本書では、具体的な日常が細々と描かれ、施設の運営がどのようになされているかがよくわかる。 施設長である筆者は、コーちゃんと呼ばれたり、用務員のオジサンと呼ばれたりしていることが、多少の誇りと自負をもって書かれている。 無名でいることの難しさや、自然体で仕事を続けることの楽しさを、本書は充分に味あわせてくれる。 人を見る目がいかに違うか。 同じ目線の高さで人を見ることは、困難であると同時に、厳しいことである。 特殊学級にかかわる教師たちを、決して批判するのではないが、筆者の目線とは違うことがさりげなく書かれている。 わたし達が感じたのは、先生方とわたし達との、立場の違いからくるものと思われる、少し大袈裟な表現になるが、人間観のへだたりだった。(中略) 少女のことを、まず障害を持つ子供としてとらえたうえで、「この子は……」と、もちろん肯定的にではあるが、評価し断定してしまうという−そのことにわたし達は人間観のへだたりを感じ取っていたのだった。P326 善意の人の存在という表現を、筆者は嫌うであろうが、あえて筆者のような善意の人の存在が、人間を信じさせてくれる。 障害者を決して美化せず、普通の人として扱う。 それは実に難しいことだ。 わたし達は、精神に障害を持つ人と共に生きるということが言うは易く行うに難いことだということを、ケアハウスに暮らす(暮らしていた)何人かの精神障害者から、いやというほど教えられてきた。「共に生きる」というのは単純なことではなく、実に複雑なことであり、むしろ猥雑といってもよいようなことであり、とにかく疲れることなのである。これからも、精神障害を持つ人がケアハウスに入居を希望するということがあれば、わたし達は「もうこりごりだ」と思いつつ、きっと「どうぞ」と受け入れるに違いない。P264 ケアハウスという施設でありながら、「家族のように暮らしたい」という書名をつける矛盾や、分をわきまえるといった発言から、筆者のセンスには若干の古さを感じる。 ケアハウスは家族の代わりではないし、血族の家族が最上のものでは決してない。 しかしここでは、筆者の古さもまた長所であって、本書では新旧はどうでも良いことだ。 「静かなたたかい:広岡知彦と憩いの家の30年」と同様に、実に心温まる本だった。
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