著者の略歴−ハーヴァード大学心理学部で修士号を取得後、在野の学者として心理学の教科書の執筆などに携わり、子どもの発達に関する従来の通説を真っ向から否定する論文でアメリカ心理学協会の賞を受賞する。その論文をもとに書かれた本書は刊行されるや《ニューズウイーク》《ニューヨーク・タイムズ≫≪USAトゥデイ》など多くのメディアで注目を集め、激しい論争を巻き起こした。現在は、夫とニュージャージー州に住み、本書に対する批判への反論を執筆中。 3歳の時までの親の対応が、子供の性格を決めるとか、愛情を持って子供を抱きしめると、優しい子供になるとか、といった神話が信じられて久しい。 母乳で育てると元気な子供になるとか、母親の愛情こそ非行を防ぐと言った、発言はいったい何を根拠に発せられるのだろうか。 少し前を思い出せば、生まれてすぐ里子に出されても、充分に成人した例に思い至る。
肉体こそ親から引き継ぐが、精神も親の影響下にだけあるとは言えない。 いったい何時から、親の愛情がこんなに強調されたのだろうか。 愛情の強調は、親に負担であるだけではなく、子供にとっても鬱陶しい重荷となっていないだろうか。 たしかに、愛情は美しく聞こえる。 しかし、本当にそうなのだろうか。筆者は冷静に考える。 本書の目的は二つ。一つは子どもの性格、以前は「キャラクター」と呼ばれていたものだが、それは親が形づくるもの、もしくは矯正するものだという認識を戒めること。二つ目は子どもの性格がどのように形づくられるか、その代わりとなる見解を紹介すること。P13 と始まり、親は子供の性格形成に重要かつ長期的な影響を与えない、という展開が本書を貫く主張である。 フェミニズムに限らず、平等指向の考え方は、生まれよりも育ちに注目する。 誰でも平等に生まれたのだから、人間は平等であり、努力することによって幸せになれる。 これは近代の平等観を下敷きにしたもので、現実ではない。 実際の話、人間は生まれつき能力差がある。 優秀な人間もいれば、愚かな人間もいる。 しかし、近代はそうした違いを認めようとはしない。 足が速い人間がいるのは事実だし、運動神経に優れた人間がいるのは、当たり前である。 しかし、人間の能力に差があることを認めるのは、今日なかなか勇気がいることである。 子育て神話は今日の西洋社会では、万人共通とまではいかないが、広く普及しているある家族観、育児像と結びついている。その家族像、育児像とは、一人ずつの母親と父覿そして一人もしくは複数のきょうだいで構成される核家族で子どもが育つということ。さらに親が「主たる保育者」となり、親は子どもに愛情と関心を注ぎ、必要に応じて規律を教えることも求められる。このすべてが家庭という人の耳目の届かない空間で行なわれる。P108 筆者の視線は実に鋭い。 名前からわかるように、筆者は女性であるが、どうもフェミニズムには親近感を持っていないようだ。 いくら教育しても、生まれながらの違いがある。筆者はそう考えている。 心理学者たもはまた、7歳の女の子にもオモチャのトラックで遊んでいる姿な撮らせてほしいと頼んだが、彼女はさらに頑固だった。「ママはこれで遊んでほしいと思うだろうけど、私はイヤだわ」と答えた。 この子どもたちは一体どうしてしまつたのだろうか。ユニセックスな名前をつけ、ユニセックスな服を着せる。娘にはトラックの運転手にもなれると伝え、息子には人形で遊ぶのは間違ったことではないと伝えている。さらに私たち自身もよきお手本であろうと心がけている。北米やヨーロッパでは父親がおむつをかえることも、母親がギアを入れ換えるのもめずらしいことではない。 それにもかかわらず、私たちの息子や娘たもは、こうした古くさいこだわりをもちつづけている。大人たちの考え方は変わっても、子どもたもの考え方は依然変わらない。P271 おそらく男性は力強く、女性は華麗に生きることが、人間の自然な生き方なのだろうと思う。 非力な女性が、男性と同じ土俵で競うことは、どう考えても不自然である。 また、子供の産めない男性にとっては、女性の生む力には黙って脱帽せざるを得ない。 男と女は違いがある。それはどうしようもない現実である。 しかし、個人的な違いと、社会的な違いは、等価ではないとして、男女平等になった。
しかし、すべての人間が平等だと言うことの、胡散臭さにも一抹の真実があるようにも思う。 筆者は、細かい現状分析を積み重ねながら、独自の見解にたどり着く。 文化は古い世代から新しい世代へと、家庭ではなく、仲間集団を通じて受け継がれる。子どもたちが身につける言葉や文化は仲間たちのもであり、(もし違うものであれば)親や教師のものではない。共有する文化がなければ作ればよい。子どもたちが集まってつくり上げた文化はごたまぜになりがちだが、ふつりあいな内容が混在するいいかげんなものではない。P318 子供というか、人間に対する無条件の信頼を感じる。 核家族の弊害を訴える当サイトなど、及びもつかない主張である。 親や家庭が子供の精神状態を決めるのではない。 仲間集団が決めるのだという主張は、肯定せざるを得ない。 小さな時には、両親の言葉しか理解しないが、外にでるようになるとたちまち地元の言葉に慣れてしまう。 日本語しか話せない両親は、地元の子供と遊ぶ我が子の、言語の発達にいかんとも術がない。 せいぜいが、子供に日本語を教えようとするだけである。 親よりも地元の子供集団の影響の方が、はるかに強いのである。 こうした事情を考えれば、核家族に拘るのは、いささか徒労感もないことはない。 子育て神話は、近代が作ったことであり、近代の終焉と同時に消失していくものだろう。 とすれば、情報社会化の進展とともに、核家族は消えていくのかもしれない。 単家族など唱えなくても、自然に核家族は消えていくのだろう。 本書は子育てがどこで間違えたのか、5つの原因をあげる。 1 一夫多妻が普及した制度であり。核家族は浅い歴史しかない。 2 社会化とは大人が施すものではなく、子供が獲得するものである 3 学習はその場所に付いたもであり、移動できるものではない。 4 遺伝の影響は大きい。 5 個人生活を称揚するのは、集団生活を無視する最近の現象である。 本書は、人間の精神状況に、何が一番大きな影響を与えるのか。 そうした広い見方を教えてくれる。豊富な事例と、詳しい動物実験の結果などを引用しながら、人間の精神活動に対して深い洞察を加えている。 実に敬服である。 筆者が掲げる子育て大誤解は、まさに適解だとしても、いや筆者の意見はほぼ肯定する。 しかし、今更前近代には戻れない。 肉体労働が人間に自然であり、頭脳労働は不自然である。 けれども、もはや肉体労働の社会には戻れないのだ。 だから、筆者の意見にはすべて肯首しつつも、新たな人間の生き方を模索せざるを得ない。 (2003.12.05)
参考: 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998 大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997 磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003 奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992 信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001 高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006 デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995 ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997 編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995 ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、 杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980 矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004 浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005 本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005 広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997 高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002 服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005 塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972 ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001 編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991 末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994 賀茂美則「家族革命前夜」集英社、2003
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