匠雅音の家族についてのブックレビュー   日本資本主義の精神−なぜ、一生懸命に働くのか|山本七兵

日本資本主義の精神
なぜ、一生懸命に働くのか
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筆者 山本七兵(やまもと しちへい)  光文社文庫 1984(1979)年 ¥320−

編著者の略歴−大正10(1921)年、東京に生れる。青山学院卒業。昭和33牛山本書店を創立、その後精力的な執筆活動に入る。平成 3年12月死去。著書に「日本人とユダヤ人」「ある異常体験者の偏見」「『空気』の研究」「私の中の日本軍」「聖書の旅」「洪思翊中将の処刑」など多数。 また、イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳として、「日本教徒」「中学生でもわかるアラブ史教科書」「日本人と中国人」ほか多数の著書もある。
 本書は1979年に出版された。
高度経済成長期のまっただ中、国民の多くが必死で働いて豊かになりつつあった。
むしろ、働き蜂として、豊かになりすぎる日本を、先進国の人たちは驚きを持って見つめていた。
なぜ、日本人はあんなに働くのか。
まだ、当時は過労死という言葉はなかったが、滅私奉公的に働く日本人は異常に見えたに違いない。

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 多くの経済学者たちが、日本人の働く理由をさまざまに解説した。
しかし、どれも当たっているようでいて、当たっていなかった。
まず、終身雇用だからといっても、採用時には終身雇用が約束されるわけではない。
だいたい我が国の雇用契約など実にいい加減で、採用されるほうが雇用契約を云々したら、その場で不採用であろう。
しかも、中小企業には終身雇用など無縁の話だったが、中小企業でも皆必死で働いたのである。

 筆者は我が国には契約という概念がないという。
我が国の契約書の最後には、両者とも誠実に契約を遂行すると書かれているが、こんなことを書くくらいなら契約する意味がないではないか。
ユダヤ人やアラブ人の契約を持ち出しながら、このあたりの事情を説明していく。
また、日本には血縁主義も地縁主義もなく、あるのは擬制の血縁主義であり、機能組織と共同体が一体になったものだという。
血縁ではなく擬制の血縁だというのは、本サイトでも論じている。

 筆者の言うこのあたりの展開は、テンニースが「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」で言うように、前近代から近代への流れとして捉えることができよう。
我が国の場合は、前近代の倫理というか道徳が、近代化にきわめて適合的だった。
西洋諸国しか近代化を成し遂げることができないと見られていた時代、つまり明治維新を経て日清・日露の戦争を勝利して、近代諸国の仲間入りした事実は驚異であったろう。
プロテスタントが近代化のエートスと言われていたにもかかわらず、キリスト教国ではない我が国が近代化に成功した。

 筆者は日本人の精神構造を、江戸時代までさかのぼって考える。
そして、職能集団と共同体の一致を発見する。
そして、両者を支えているのは、年功序列だという。

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 そこ(=共同体)へはいってしまえば、なんらかの事故でも起こさない限り、一流企業の社員という社会的序列から転落することはない。いわば下限が保障され、同時に将来への可能性も保証されている位置である。これは、リスク皆無の賭けのようなもの、言いかえれば「買戻し条件つき宝くじ」のようなものである。たとえはずれても「一流大学卒」への投資は必ず返ってくると人びとが信じており、この信仰が事実で裏づけられている限り、人びとが「買戻し条件つき宝くじ」に殺到するのは当然である。
 この殺到は当然に犠牲者を生む。新聞はそれを批判する。しかし新聞社にいてその批判ができる位置にまで昇るには、まず入社しなければならず、入社するには一流大学にはいらなければならない。となれば、殺到を批判しうる位置に昇るためにまず殺到しなければならない、という矛盾を生じてしまうのである。
 いったい、この背後にあるものは何であろうか。それは「年功序列」である。それは、企業ではじまるのでなく、当然のことだが大学ですでにはじまっている。
 入社ならぬ入学をすれば、外国の大学のように不適格として排除される心配はなく、卒業という停年まで、必ず在学できる。そして単位制度があっても、進級は結局「年」と「功=成績」であり、それの積み重ねで卒業すれば「大卒」という「社会的序列」にはいる。そしてこの「序列」にはいってはじめて、一流企業の「年功序列」に加入できる資格を得るわけである。
 ここにある原則はすでに「功」すなわち成績もしくは業績が、ある種の「序列」に転化するということである。そして、会社における能力主義もまた、「年の功」すなわち経験の蓄積という「功」と、それによらぬ才能に基づく「功」とを、その「序列転化」においてどう評価するかという問題だけであって、「功」が「序列」に転化するという基本には何の変更もない。
 そして、この原則は、中小企業でも同じだったのである。P24


 確かにこの指摘は鋭い。
しかも、一つの組織での序列が、そのまま功績に転化し、地位を保証していくのだという。
その通りである。
一つの組織で長く働いたことが一種の信用となって、それが高収入や高い地位につながっていく。
組織内での評価は、必ずしも優れた技術を体得したかどうかではない。
むしろ有能な人間は、協調性がないとして嫌われさえするのだ。

 普通の近代は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと転化するのだが、我が国では転化することがなかった。
筆者は、ゲゼルシャフトとしての機能集団と、ゲマインシャフトとしての共同体が二重構造になっているという。
そのため、会社などの機能集団であるはずの組織ですら、共同体としての性格をもっており、会社に就職することは会社という共同体に属することになる。
共同体であれば、参加するにも儀式が必要であり、一度参加すれば、そこを辞めることは想定されていない。
だから結果として終身雇用になってしまうのだ。

 先進国では事情が違って、村落共同体から会社という利益集団へと出稼ぎに行くに過ぎない。
そのため、自分の住んでいる地域への愛着が生じて、仲間意識や郷土愛が育つのだという。
それに対して、我が国では会社が共同体であり、住む場所のほうがただのネグラにしか過ぎないから、地域共同体が育たないのだという。

 我が国では働くと言うことが、経済的な活動に止まらない。
一種の自己実現につながっており、農業則仏行といった禅的な修行だという。
それはサラリーマンになっても変わりなく、仕事を取り上げられると生きがいを喪失してしまうという。
そして、働いた結果として利益を上がることは肯定されているが、利益は自己のためではなく、共同体のために上げるものとされている。
そのため、共同体の長たる社長は、清貧の生活をすることが求められている。
それは経団連の会長が小さな家に住み、めざしを好んで食べたのが賛美される風土である。

 我が国が元気の良い時代に書かれた本なので、元気の素を解説している。
失われた20年と言われる現代であれば、事情は全く違うであろう。
下記のように言うのも、時代のなせることだろうか。

 日本は模索なき模倣の社会だ、などと言う人もいるが、その人は、徳川時代に連綿とつづいた武士階級の試行と模索を知らないだけである。明治の成功は、前章で述べたような「庶民の倫理」を基礎とし、その上にこの武士階級の模索の成果を生かした結果である。
 人間の世界には奇跡はない。奇跡と思っているのは、その人間の無知の表明にすぎず、「手品は、そのたねがわかっている者にはそうなって当然であり、そうならなければ奇跡」なのである。明治が明治の成果をあげ、戦後が戦後の成果をあげたのは、当然であって、それは奇跡ではない。P173


 共同体と機能集団との二重化は、必ずしも良いことだけではない。
共同体を維持するために、機能集団の機能が従属することにもなる。
それが戦前の軍部であり、現代の国鉄労組や総評であるという。
ここまでは納得だが、経済合理性の追求を阻害するのが、民主主義だというのは大いに疑問である。  (2012.7.23)
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参考:
横田正平「私は玉砕しなかった」中公文庫、1999
西川長大「国境の超え方」平凡社、2001
戸部良一他「失敗の本質」ダイヤモンド社、1984
ピータ・W・シンガー「戦争請負会社」NHK出版、2004
佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社 2001
菊澤研宗「組織の不条理」ダイヤモンド社、2000
ガバン・マコーマック「属国」凱風社、2008
ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」岩波書店、2002
サビーネ・フリューシュトゥック「不安な兵士たち」原書房、2008
伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」新潮文庫、1969
石原里紗「ふざけるな専業主婦 バカにバカといってなぜ悪い」新潮文庫、2001
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
田嶋雅巳「炭坑美人 闇を灯す女たち」築地書館、2000
モリー・マーティン「素敵なヘルメット 職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
シェア・ハイト「なぜ女は出世できないか」東洋経済新報社、2001
山本七平「空気の研究」文春文庫、1983
山本七兵「日本資本主義の精神」光文社文庫、1979

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