匠雅音の家族についてのブックレビュー    金日成長寿研究所の秘密|金素妍

金日成長寿研究所の秘密 お奨度:

編著者:金素妍(きむ そよん)文春文庫、2002年  ¥619−

著者の略歴−1949年、ソウル生まれ。平壌医大卒業。人民軍戦傷者病院に勤務し たのち、金日成高級党学校政治保衛大学でスパイ訓練を受け、秘密工作員として国内外で数多くの 功績をあげる。また、金日成長寿研究所で、党高位幹部の主治医として腕をふるった。92年、韓国に亡命。現在は ソウルで自然療法研究院を運営するかたわら、東国大学大学院で研究を続けている。
 筆者は韓国で生まれたが、社会主義国家の建設に燃えた母親が北朝鮮に帰った。
そのために筆者は、小さな時から北朝鮮で教育を受け、北朝鮮人として成人した。
北朝鮮の工作員として活躍した後、中国への脱出を経て、韓国へと定住した。
本書は壮絶なその顛末記である。
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 母親はインテリだったが、韓国出身者は歓迎されない。
スターリンのソ連と同様に、表面上は歓迎の素振りを見せた。
が、やがてスパイではないかと疑われる。
そのうえ、出自を重んじられる北朝鮮では、韓国出身者から生まれた子供では幸福が来ない。
そこで彼女は母親から因果を含められて、革命家の家に子供として偽装入籍した。
彼女は優秀だったので、めきめきと頭角を現し、医学大学へと進む。

 医大を卒業した筆者は、1970年から病院で研修医を勤めていた。
その2年目、金日成高級党学校政治防衛大学への入学命令が来る。
そこで政治思想の学習と闘士訓練をほどこされて、工作員へと仕立て上げられた。
工作員には誰でもがなれるわけではない。
工作員には、立派な家と女中さんがつく。筆者はいわばエリートだった。
そして、一つのことを除いて、工作員への訓練を楽しんでさえいた。

 たった一度だけ、悲惨な気持になった瞬間があったとすれば、性ホルモン抑制注射を打たれたときだ。われわれ工作員は訓練を受ける際、男女を問わず性ホルモン抑制注射を打たれた。性的欲望は人間の本能だ。しかしそんな主張は自由が保障された社会でのみ通用するのであって、個人がなく党と首領だけが存在する北朝鮮社会では認められない。ましてや高度の訓練を受ける工作員たちが性的本能のために精神がだらけたり、気持ちが揺らいだりすれば、それこそたいへんだ。性ホルモン抑制注射はそういった懸念をなくすのに最も適した装置だった。注射されると女たちは生理が止まり、男たちは勃起しなくなった。P26

 順調だった工作員の生活が、ある事件をきっかけに狂い始める。
エリートだっただけに、その階段をはずされたときの反動は大きい。
監視される日々になったしまった。
そこで筆者は、中国への脱出を試みる。
この脱出行は壮絶を極めた。
当時、中国と北朝鮮は親密な関係にあり、北朝鮮からの脱出者は、故国へ送り返された。
そうなれば筆者の運命は決まっている。
言葉が満足に通じない中国で、身よりもなく、無一文になる。
公安に追われながら筆者は必死で生き延びる。

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 中国での流彷生活は、日本語の文字を読んでいても、その困難さが伝わってくる。
わが国の犯罪者が警察から逃亡する話を聞くが、それよりはるかに大変だろう。
幸運なことに、この頃、中国と韓国が国交をもった。
筆者は韓国への亡命が認められて、かろうじて生命が保たれた。

 工作員時代に耳にタコができるほど聞かされた言葉が思い浮かんだ。「金がなければないほど都市に行かなくてはならないし、隠れる必要が大きければ大きいほど、人の多いところに行くべきだ」という言葉を……。徹底的に身分を隠さなければならない工作員は、とにかく人の多い都市に根拠地を作らねばならなかった。そうしないと安全に任務を遂行することができないのだ。P77

 人の目を逃れながら、何とか口を糊する日々だった。
筆者は工作員だった時代と同じ生活をした。
結果としてそれが、筆者の命をつないだ。
通常の人間であれば、とても外国での逃亡生活には耐えられないだろう。

 本書は自由のない国で生活してくると、どんな人間ができあがるか、実に興味深い。
北朝鮮から韓国へと脱出してきた人間は、千数百人いるという。
が、多くの人が資本主義社会への適応に苦労しているらしい。
規律優先の社会では、自発性がなくなってしまう。
以下は筆者がある程度、韓国の生活になれての話である。

 その当時私はよく、みんなががやがやと出ていったあとのオフィスにひとり残って、ぼんやり窓の外をながめていたものだ。仕事のあと、みんなどこに行くのか知りたかった。北朝鮮では私生活というものがないから、仕事のあとに何をするべきか悩むことはなかった。しかしここではそうはいかない。出勤して仕事が終わるまでは公式的な業務を処理するが、それ以外の時間はすべて、個人が好きに使える。
 私は、そんな自由時間がつらかった。1人2人と帰ってしまうと、どこに行ったらいいのか分からなかった。11階から見下ろす夜の街は、そんな私をさらに悲惨にした。孤独どころか恐ろしくすらあった。きらめくネオンサインがまるで、私をとって食おうとする怪物の真っ赤な口のように見えた。P228


 与えられた仕事は消化できるが、自分から考えて行動する力はない。
競争のない前近代なら、時間はゆっくりと流れたから、日々に同じ仕事をしていれば良かった。
党の身分が個人を保証する社会は、まるで前近代である。

 金日成のためだけの食品を開発・生産している人や、衣服や寝具類を手作りする人など、総勢4000人が働いているという長寿研究所には興味がない。
わが国にも、東京のど真ん中に住んでいる人間に、奉仕する同じようなシステムがあり、決して他人事とは思えない。
前近代の残滓があるところでは、どこでも個人崇拝がある。

 本書は、筆者の信条が率直に語られており、それが正直であるだけに不気味な雰囲気である。
いまでは韓国社会に適応しているから、本書が書けたのだろう。
その不気味さが自由の大切さを、雄弁に物語っている。
(2002.10. 18)
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参考:
高沢皓司「宿命「よど号」亡命者たちの秘密工作」新潮社、 2000
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993

大塚英志「彼女たちの連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義」角川文庫、2001
清水美和「中国農民の反乱 昇竜のアキレス腱」講談社、2002
潘允康「変貌する中国の家族 血統社会の人間関係」岩波書店、1994

石原寛爾「最終戦争論」中公文庫、2001
多川精一「戦争のグラフィズム」平凡社、2000
レマルク「西部戦線異常なし」レマルク、新潮文庫、1955
ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」岩波書店、2000
アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」筑摩学芸文庫、2001
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
戸部良一ほか「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社、1984
田中宇「国際情勢の見えない動きが見える本」PHP文庫、2001
横田正平「私は玉砕しなかった」中公文庫、1999
ウイリアム・ブルム「アメリカの国家犯罪白書」作品社、2003
佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社、2001
多川精一「戦争のグラフィズム 「FRONT」を創った人々」平凡社、2000
秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書、1999
佐藤文香「軍事組織とジェンダー」慶応義塾大学出版会株式会社、2004
別宮暖朗「軍事学入門」筑摩書房、2007
西川長大「国境の超え方」平凡社、2001
三宅勝久「自衛隊員が死んでいく」花伝社、2008
戸部良一他「失敗の本質」ダイヤモンド社、1984
ピータ・W・シンガー「戦争請負会社」NHK出版、2004
佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社 2001
菊澤研宗「組織の不条理」ダイヤモンド社、2000
ガバン・マコーマック「属国」凱風社、2008
ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」岩波書店、2002
サビーネ・フリューシュトゥック「不安な兵士たち」原書房、2008
デニス・チョン「ベトナムの少女」文春文庫、2001
横田正平「私は玉砕しなかった」中公文庫、1999
読売新聞20世紀取材班「20世紀 革命」中公文庫、2001
ジョン・W・ダワー「容赦なき戦争」平凡社、1987
杉山隆男「兵士に聞け」新潮文庫、1998
杉山隆男「自衛隊が危ない」小学館101新書、2009
伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」新潮文庫、1969
顧蓉、葛金芳「宦官 中国四千年を操った異形の集団」徳間文庫、2000
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
久家義之「大使館なんかいらない」角川文庫、2001


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