匠雅音の家族についてのブックレビュー     同性愛と生存の美学|ミッシェル・フーコー

同性愛と生存の美学 お奨め度:

著者:ミッシェル・フーコー−−哲学書房、1987 ¥2、330−

著者の略歴−
 フランスとアメリカの雑誌に掲載された、フーコーが50才の時のインタビューをまとめたものが本書である。
フーコーは概念を弄んで捕らえどころがなく、相も変わらず彼の言葉は難しい。
フーコーがゲイだったことは有名だが、
彼自身が体験してきた性的な世界と、本書はどのように関係しているのだろうか。

 彼は同性愛ではなく、ゲイだ、ゲイスタイルが大切なのだと言っている。

 同性愛者になるべきなのではなく、しかし懸命にゲイになるべきなのだと付け加えましょう。P42
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同性愛と生存の美学

 この発言を聞くと、彼のなかで同性愛とゲイが別物であると意識されているようだ。
しかし、本書では同性愛とゲイの違いが、明確に定義されていない。

 私はもちろん同性愛とゲイは、まったく別物だと考えている。
同性愛とは、いわゆる少年愛をさし、年長の男性と年少の男性との性愛関係である。
同性愛に関しては、本書でも論及されており、ギリシャ時代の同性愛に関して次のように彼は言う。

 自分と同じ性の人間と寝た人間は、自分が同性愛者だと感じはしなかった。これは、 根本的なことだと思います。
 成人男怯が少年と性交渉を持ったとき、道徳的な分割線は次のような問いを通ってい たのです。その男性は能動的であるのか受動的であるのか? そして−髭の出現が或 る限界の年齢を規定していたために−髭のある少年と性交渉を持っているのかどうか? この二種類の分割の組み合わせは、道徳性と非道徳性のとても複雑な輪郭を作り出し ます。したがって、ギリシャ人においては同性愛が黙認されていたのだとするのは、何の 意味もないことになります。P22

 この限りでは当然の発言である。
わが国における陰間の存在にしても同様である。
成人男性が、女性を買いに行くのと少年を買いに行くのは、
肥った女性か痩せた女性かの違い程度であったろう。
つまり、男性性の象徴たる能動性が発揮される限り、
女性であろうと少年であろうと同質の存在だった。
受け入れる存在として、肉体を男性の前に差し出しさえすれば、
相手の性別が問題になることはなかった。
だから、奴隷との性関係は自由市民が犯すもので、奴隷が犯されるものだった。
それは強姦の被害者が、常に女性か若い男性である必要と同じである。
性関係も、その社会の人間関係の反映に過ぎない。

 それにたいして、同性成人間の性愛関係をゲイと呼ぶ。
ここでは両者が等質の横並びになっている。
彼は、成人男性間の関係と成人男性と少年の関係を区別していながら、
両者をはっきりとは定義しないまま話を進めている。
そして、話は突然に17世紀に飛んでしまう。

 同性愛者とは呼ばれず、17世紀からは男色家(ソドミ)と呼ばれていた者たちに対し、一群の措置や訴訟や有罪判決等が行なわれたのです。それは非常に視雑な歴史で、三段階の歴史だと申し上げておきましょう。中世より、男色に対する死罪を含む法が存在していましたが、嘆かわしいと言わざるをえないその適用は、きわめて限られていました。その法の存在、法が適用された枠組み、そしてなぜ、その場合にしか適用されなかったのかという諸理由など、この問題の構成を検証しなければならないでしょう。P38

 ここで見えることは、近代以前にあったのは少年愛だけで、
成人男性間の性愛関係つまりゲイはなかったということである。
とすれば、話は簡単に説明が付く。
近代になって年齢秩序にヒビが入り、成人男性間の性愛関係が生まれた。
しかし、未だ強固な年齢秩序によって、新たな性愛関係は頑強に否定されたのであろう。
情報社会化によって年齢秩序の崩壊はより進むから、
今後子供との間の性愛関係が増えるだろうが、
現在の倫理は幼年者への性関係を厳しく禁止している。
成人男性間の同性愛の台頭は、幼児性愛のこうした事情と同じ経路だったろう。

 私は成人間の性愛関係だけをゲイと呼び、少年愛的な同性愛をホモと読んで区別している。
このあたりは、フーコーに問いただしてみたかったことである。
それにしても、少女愛的な同性愛つまり年長の女性と、
年少の女性が性愛関係を持つことはなかったのだろうか。

 ところで、筆者が次のように言っていることは、やはり疑問が残る。

 近親相姦は、ポピュラーな、つまりここで言いたいのは民間に広く普及した、とても長い間行なわれてきた実践でした。近親相姦に対して様々な社会的圧力が向けられたのは、19世紀の末になってからにすぎません。そして、近親相姦の大禁止は、知識人たちの発明であることは明らかなのです。P74

 近親相姦の禁止は、人間に限らず社会生活を営む動物のすべてに行き渡っている。
筆者はそれをいとも簡単に否定してしまう。
ここは再考が必要だと思う。
大きな文字でスカスカの本だが、フーコーだというので上梓されるのか。

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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006
礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987
プラトン「饗宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002
東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985


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