著者の略歴−1958年、フィラデルフィア生まれ。ゲイであることをカミング・アウトしているジャーナリスト。エール大学を卒業後、ブロードウェイの音楽コーディネーターを経て、1986年から、作家活動に専念。以降、「ニューヨークタイムズ・マガジン」をはじめ、「ニューヨーカー」「ニューヨーク」「プレミエ」「GQ」「フィラデルフィア」「アウト」など、多くの雑誌で執筆活動をしている。90年代に入ってからは、毎年のように、雑誌関連の賞を受賞している。ジャーナリストとしてばかりではなく、小説家の顔も持ち、1992年の「オー・ビューティフル」をはじめ、数々の短編を発表し、雑誌の長期連載記事とともに、アンソロジーに収録されている。1999年6月にランダムハウスから発表された最新エッセイである本書は、全米ベストセラーとなり、早くも翌2000年5月に、ペーパーバックとして発売されている。さらに、「ロサンゼルスタイムス」紙と「チャイルド・マガジン」の1999年度ベストブック・オブ・ザ・イヤーにも選ばれている。ニューヨーク在住。 ゲイのカップルの子育てと聞くだけで、キワモノに感じるかもしれない。 しかし、本書はきわめて真面目な子育て奮闘記である。 異性愛のカップルがセックスをすれば、子供ができる可能性がある。 結婚すれば、子供をもてる。 ゲイのセックスでは子供はできないし、彼らには結婚も認められないことが多い。
男性のゲイが子供をもつには、人工授精で妊娠してもらうか、養子をとる以外には道がない。 ジョシはゲイである。 そしていま、アンディと恋仲である。 アンディという男性が、まず独身のまま養子をとる。 その頃、本書の筆者ジョシはアンディと出会い、2人は恋に陥る。 アンディとジョシは同居しないが、親密な関係を続けていく。 パパ・アンディは子育てに奮戦しており、ジョシにも必然的にアンディの子供が問題になる。 その後、アンディはもう一人の子供を養子にとる。 結局、アンディとジョシは4人家族として、生活を続けることになる。 本書は、パパになろうとするジョシの、約4年にわたる記録である。 異性愛のカップルは、異性愛が社会的な多数派であるために、自分たちの関係を問いなおす必要性がうすい。 愛しあってセックスをし、女性が妊娠・出産する。2人の間に子供が誕生すれば、いつとはなしに子育てが始まる。 彼らは生活の糧を得るための苦労はするかもしれないが、子育ての再確認は要求されない。 特別に考えることなく、自然のうちに子育て体制に入っていく。 ゲイは違う。 まず、自分が同性愛者であることの確認がある。 なぜ自分は他の人とは違うのか、なぜ異性に興味がもてないのか等、自分への問いは常につきまとっている。 いつもいつも自己確認を要求されるのが、ゲイの人生である。 それは自己相対化を要求される、観念的近代人の生き方そのものである。 ゲイが子供をもつことも、まったく観念による確認の連続である。 農耕社会にあった少年愛的な同性愛=ホモと、ゲイはまったく違う。 ホモの小児愛は、力の弱い女性への代替物として、少年を愛しているに過ぎず、今日にいうゲイではない。 年齢秩序が崩れた情報社会では、誰でもが横並びになる。 そこでゲイが誕生したのである。農耕社会的な価値観から見ると、ゲイは不自然である。 ゲイに対する偏見的攻撃として、ゲイは小児愛だというものがしばしば登場する。 ゲイは、心の底では小児愛だ、それは恐ろしいことだという考えが潜んでいる。ゲイにあるとされる子どもへの性欲は、悪魔のような邪悪さの証拠として何年も使われ続けている。性の解放運動が進み、同性愛者の市民権も広がってきて、1990年には、テレビの連続ドラマにも同性愛者が登場するようになったのに、まだ悪意のあるデマは衰えず、私たちを圧倒している。P156 と、筆者が嘆くのも当然であろう。 ゲイは同じ世代の同性にしか興味がないといっても、多くの人にはゲイとホモとの区別がつかない。
農耕社会では許されたホモの小児愛も、いまでは幼児虐待という犯罪である。 思春期前の男女を、性的な相手にすることは、現代社会では許されない。 ゲイは不自然ではあるが、情報社会の頭脳労働がもたらしたものである。 不自然だという理由でゲイを否定するなら、情報社会も否定せざるをえない。 情報社会とは、観念が現実を支える倒錯した構造だからである。 近代に入るまでは、現実が観念を規制したが、今日では観念が現実を規制する。 そのために観念に生きるゲイにも、子育て欲求が生まれるのである。 しかし、古い人たちはそれを納得できない。 私の両親には、どんな埋め合わせがあるだろうか。私の父は、すでに、私に直接「自分が息子の恋人の養子の祖父になることは、考えることさえ難しい」と言っており、自分の心の狭さを嘆いたが、打開策を見いだそうとはしなかった。私の母は、私がエーレズといっしょにいるところを見ていると、元気づけられるどころか、とてつもなく悲しくなると言った。P93 ジェシの両親にとっても、驚天動地であったろう。 息子の恋人が6つ年上の男であることだけでも驚きなのに、その息子の恋人が養子をとり、結果として自分はおじいちゃんになるのだ。 しかも、養子になった子供は、ユダヤ人には馴染みの薄いヒスパニックである。 しかし、実は異性愛者だって、子供をもつことの意味など、大して考えてはいない。 彼(アンディのこと)が、子どもを持つ理由をしっかりと見つけられなかったのは、驚くべきことではない。見つけられる人なんてほとんどいない。伝統的な家族の親たちに、なぜ、わざわざ子どもを産むのか、たずねてみるといい。「いつも、欲しいと思っています」という同語反復が返ってくるか、「次の世代に何かを返していくべきだと感じています」という、さびついたノコギリをあわてて集めたような答えを受け取ることがほとんどだろう。ゲイに、なぜ子どもを持ちたいかとたずねてみよう。質問の意味が理解できないという視線が返ってくることだろう。いくら強調してもしすぎることはないのだが、アメリカの文化は、異性愛者に親になることを押しっけている。それが、どんなに野暮なことか。そして、ゲイから親になろうという考えを奪っている。それが、どんなにケチなことか。P155 子供はただ生まれてくる。 人間が誕生する意味などない。 だから、歓迎される誕生もあれば、歓迎されない誕生もある。 子供の誕生に意味づけするのは、大人の都合である。 だから先進国では、出生率が下がるのである。 いくら子供の誕生する意味を考えても答えはでない。 好きな人間が、子育てをすればいい。 好きな人間の希望を削ぐような制度は、差別といわれても仕方ない。 自己存在の根幹を考えるゲイの子育ては、異性愛者にも多いに有益である。
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006 礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987 プラトン「饗宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002 東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991
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