著者の略歴−1934年茨城県生まれ。東京大学名誉教授。免疫学者。千葉大学医学部卒。千葉大学教授、東京大学教授、東京理科大学生命科学研究所長を歴任。95年、国際免疫学会連合会長。抑制T細胞を発見。野口英世記念医学賞、エミール」フォン・ベーリング賞、朝日賞など内外の多数の賞を受賞。84年、文化功労者。能楽にも造詣が深く、脳死と心臓移植を題材にした『無明の井』、朝鮮人強制連行の悲劇『望恨歌』などの新作能の作者としても知られ、大倉流小鼓を打つ。2001年、脳梗塞で倒れ重度の障害をもつ。おもな著書に『免疫の意味論』(93年青土社、大佛次郎賞)、『独酌余滴』(99年朝日新聞社日本エッセイストクラブ賞)、『脳の中の能舞台』(2001年新潮社)、『露の身ながら』(柳澤桂子と共著 2004年集英社)など多数。 高名な免疫学者である筆者が、脳梗塞に襲われ、重い後遺症におちいった。 筆者には申し訳ないが、人間という生き物は平等だと思う。 いくら高名でも、高貴といおうとも、また金持ちでも、病気は誰にでもやってくる。 人間社会は不平等だが、人間は平等である。
67歳の誕生日を過ぎてまもなく、筆者は脳梗塞に陥った。 ある日、筆者は漢方医のもとで診察をうけていた。 その最中にストロークがきた。 手術中など身体を動かさないとき、ストロークが来ることは多い。 同じ理由で、就寝中も多い。 すぐさま救急車が呼ばれ、金沢医大の付属病院に担ぎ込まれた。救急車のサイレンを後ろに聞きながら、私は担架に横たわった。酸素マスクの下で、これは大変なことになつたらしいと初めて心配になった。屈強な看護師が頻繁に血圧を測ったが、異常はない様子だった。その間意識は失われることはなかった。 症状は一過性で、救急車に乗せられると、すぐ消えてしまった。私は起き上がろうとしたが押さえつけられ、モニターにつながれたまま身動きできなかった。 20分ぐらい揺られたであろうか。突然車が止まり、あわただしく、大きな検査室に運び込まれた。型どおりの診察の末、緊急入院ということになつた。病状のただならぬことは、時を移さず教授が呼ばれ、抗凝固剤の点滴などが開始されたことからも知られた。(中略) 2回目の発作が襲ったのは午後5時過ぎだった。夕食の途中で急に金縛りのように手足が動かなくなり、体の自由が失われてベッドに倒れこんだ。しかしこのときも一過性の虚血で、医師が駆けつけたときにはもう治っていた。私はまだことの重大さに気づいていなかった。P12 ボクとまったく同じ経過である。 最初のストロークは軽い。 すぐ治ってしまう。 そして、本人は自分に何が起きているか判らない。 最初のストロークはボクと同じだったが、やられた脳の場所が違い、しかも範囲が広かった。 そのため、大きな後遺症が残った。 筆者は今回の脳梗塞を発症するまで、健康診断で引っかかるようなことはなく、まったく健康だった。 直前にはアメリカへの出張を終え、恩師の見舞いなどをこなしている。 まさに青天の霹靂である。 脳梗塞にかかっても、大きな後遺症が残らなければ、日常生活が変わることはない。
これは大変である。 ほぼ寝たきりに等しく、自分のことは自分ではできない。 そして、自分の意志を言葉で伝えることができない。 つねに誰かの介護が必要である。 筆者は懸命のリハビリに励む。 その過程が本書である。 理学療法士は親切にやり方を基本から教えてくれた。車椅子への乗り移り方、ベッドに戻るにはどうしたら良いか、そこには合理的な規則がある。理学療法士に一つひとつ教えられて、私はリハビリテーションが科学的なもので、決しておざなりの生活指導のようなものではないことを実感した。ここで教わったことが後まで役に立ったことを、今では感謝している。P38 直後は自殺も考えた筆者だが、徐々に生きることに目覚めてくる。 障害のできた身体と付き合う方法を、各自がそれぞれに覚えていくのだ。 筆者は、自己は一度死んだという。 そして、リハビリの過程で、別の人格がめばえ、それが新たな巨人に育っていく、と感じている。 普通は何気なく無意識にやっている行動が、じつは膨大な学習の結果、やっと体得されたものだと知る。 赤ん坊の時には、何もできない。 歩くのだって、モノを食べるのだって、生まれてからの長い訓練で体得したものだ。 老年になって訓練するのは、ほんとうに厳しいものだ。 しかし、筆者は自分とよく戦っている。 本書を読んでいて感じるのは、発症までの人生が充実していたことだ。 業績も残し、友人にも恵まれ、なによりも奥さんを大切にしていた。 後遺症が残って、リハビリに励むにしても、発症までの人間関係がものを言う。 奥さんを大切にしてこなかったら、発症したからと言っても、大切にしてはもらえない。 医者・看護士そして療法士たちは、熱心に取り組んでくれるだろう。 有り難いことだが、それは彼(女)の職業だからである。 病気は専門家が治癒の手助けをしてくれる。 しかし、生きる力を与えてくれるのは、身近な人たちなのだ。 最も力になってくれるのは、伴侶おいて他にはない。 筆者は懸命なリハビリにもかかわらず、言葉も獲得できなかったし、半身不随も残っている。 それでも発症前より、充実した生を送っているように感じる。 私は自分の中の他者に、こうつぶやく。何をやっても思い通りには動かない鈍重な巨人、言葉もしやべれないでいつも片隅に孤独にいる寡黙な巨人、さあ君と一緒に生きてゆこう。これから婆婆ではどんな困難が待っているかわからない。でも、どんな運命も一緒に耐えてゆこう。私たちは一人にして二人、分割不可能な結合双生児なのだから。そして君と一緒にこれから経験する世界は、二人にとって好奇心に満ちた冒険の世界なのだと。 妻が、一人でうなずいている私に、そっと彼女のショールを掛けてくれた。そうだ。もう一人同行してくれるものがいるではないか。さあ生きようと私は思った。P100 脳梗塞患者の手記は少ない。 頭をやられると、自分に自信がなくなって、自分の考えを表出できなくなる。 そして、メゲたり落ち込んだりする。 脳疾患患者の多くが、鬱状態に襲われるというが、おそらく筆者は鬱病とは無縁だっただのだろう。 本書からは、メゲや落ち込みが見られず、いろいろと教えられるところがあった。 (2009.1.16)
参考: 宮内美沙子「看護婦は家族の代わりになれない」角川文庫、2000年 佐藤早苗「アルツハイマーを知るために」新潮文庫 2007年 E・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000年平凡社、1970 W.ラモエス「徳島の盆踊り:ラモエスの日本随想記」講談社学芸文庫、1998 モリー・マーティン「素敵なヘルメット 職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992 アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988 梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988 立川昭二「からだの文化誌」文芸春秋、1996 ポール・ウォーレス「人口ピラミッドがひっくり返るとき 高齢化社会の経済新ルール」草思社、2001 阿藤誠、兼清弘之「人口変動と家族」大明堂、1997 鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫、2000 小泉明「人口と寿命」東京大学出版会、1985 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 松本昭夫「精神病棟の二十年」新潮社、1981 ハンス・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988年
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