編著者の略歴−1950年オハイオ州生まれ。アメリカ合衆国の社会学者、文学研究者。専門は、ジェンダー論、クィア理論。コーネル大学卒業後、イェール大学で博士号取得。ハミルトン・カレッジ、ボストン大学、アマースト大学、デューク大学、ニューヨーク市立大学大学院センターで教鞭を執った。2009年、乳癌のためニューヨークに死す。 1990年に上梓された本書は、フランス現代思想の影響下にあるせいか、すこぶる難解な文章である。 本書は、ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」とともに、クイア理論の元になったという。 しかし、むかし読んだときには、たいして感動しなかった。 今回も疑問のほうが多かった。 ボードリヤールの「湾岸戦争は起こらなかった」のように、一種のレトリックを使っただけのように感じる。 同じような感じがするのは、本書だけではない。 ジュディス・バトラーの権力にかんする論考と同様に、搾取の構造を考える必要がない、といった結果になりかねない。 オハイオという田舎に生まれた筆者だが、 本書はアメリカ人のヨーロッパ・コンプレックスの現れじゃないだろうか。
本書は下記のような目次ですすむ。 序章 公理風に 第1章 クローゼットの認識論 第2章 二項対立論−1 第3章 二項対立論−2 第4章 クローゼットの野獣 第5章 プルーストとクローゼットの見せ物 下記が本書の冒頭部分の段落である。 『クローゼットの認識論』は、20世紀西洋文化全体における思考と知の主要な結節点の多くを構造化し、まさに分断しているのが、19世紀末から始まる、男性の(と暗示される)ホモ/ヘテロセクシュアルの定義の、長期にわたり今ではこの文化固有の危機と言えるものであると論ずる。 本書は、近代西洋文化の実質上どのような側面についての理解も、近代のホモ/ヘテロセクシュアルの定義に関する批判的な分析を含まない限りは、単に不完全というだけではなく、その本質的部分に欠陥を持つことになると主張するのであり、また、そのような批判的分析を始める適切な場は、近代のゲイ理論および反同性愛嫌悪の理論という、相対的に中心からはずれた視点からであると、仮定する。P9 1つの段落が、長い2つの文から成り立っている。 第1の文は、<結節点を構造化・分断しているのが、同性・異性愛の定義の危機であると、『クローゼットの認識論』は論じる>となるのだろうか。 そして、ゲイ理論を見ないかぎり、近代西洋文化を理解できないと言っているのだろう。 この解りにくさは翻訳の問題か、原文の問題か。 たぶん、原文のほうだろう。
ケインズもゲイだったし、アラン・チューリングもゲイだった。 しかし、経済学もコンピューターも、ゲイかストレートかを問わないだろう。 研究結果の妥当性だけが、問われるにすぎない。 筆者の得意とするのは、文学分野ではないだろうか。 文学なら何でもアリで、流行は多数決で決まる。 流行だから、下記のような文章でも通ってしまうのだろう。 ジェンダーと性的指向との間のもっとも劇的な相違は、実質的にすべての人が生まれたときからいずれかのジェンダーに公的に割り当てられ、それが変えられないということである。それが意味するのは、性的指向の方が配列換え、曖昧さ、表象の上での両義性の可能性がはるかに高いために、どちらかと言えば脱構築のよりふさわしい対象となるということだ。性的な対象選択における本質主義の方が、ジェンダーにおけるどんな本質主義よりもはるかに維持しにくく、一貫性がなく、文化のあらゆる点で目に見えて強調されたり意義を申し立てられたりするのは確かだ。P49 相違は変えられないことだ、という文脈上の論理の繋がりも、意味不明である。 ジェンダーと性的指向の両方とも、変えられないと言うなら判るが、相違が変えられないことだとはどういうことだろう。 それに、筆者が本質主義という言葉を使うのも、理解に苦しむ。 筆者は構造主義だろうから、もっと構築的に論じるのではないだろうか。 文章のお遊びといった感じが強い。 3章以降は、ワイルドやニーチェ、ヘンリー・ジェイムズなどの比較であり、筆者の得意分野だろう。 部分、部分は感銘する文もあるのだが、やはり全体では何が言いたいのだろう、である。 そして、下記のような結論に至っては、また本質主義にもどっていく。 重要なのは、単に(4種類のゲイという)複数のカテゴリーが存在するということであり、それが分類化のプロセスの正当性を保証するのである。この認定のプロセスによって、私たち女性は、男性のセクシエアリティという支配し難い地図を最終的に支配できない限り弱者だという、またもう一つ、弱者であるあり方を学ぶのである。P360 本人も女性のゲイだったらしい。 女性でしかもゲイということは、筆者の論法によれば、二重に抑圧されていることになる。 しかし、白人だったから黒人ほどの抑圧はなかっただろう。 黒人女性のゲイなら、三重に抑圧されている。 それにしても、我が国のゲイたちとは、ずいぶんと社会認識が違う。 (2010.11.25)
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999
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