匠雅音の家族についてのブックレビュー   男でも女でもない性−インターセックス(半陰陽)を生きる|橋本秀雄

男でも女でもない性
インターセックス(半陰陽)を生きる
お奨度:

著者:橋本秀雄(はしもと ひでお)  青弓社 1998年 ¥1600−

著者の略歴− 1961年、大阪府生まれ。阪南大学商学部卒業。著書『インターセクシャルの叫び』(共著、かもがわ出版)。PESFIS(日本半陰陽者協会)主宰。連絡先:大阪府吹田市穂波町4−1 吹田郵便局留、PESFIS大阪本部事務局 HP http://www14.ocn.ne.jp/~pesfis/index2.html
 本サイトでは、半陰陽についてはすでに「ヒジュラ」を取り上げている。
しかし、我が国の半陰陽者の著作ははじめてである。
半陰陽は身体的な問題だから、世界中のどの民族にも存在する。
ただ少数派なだけだ。
2004年に本書の完全版がでているので、そちらを論じるべきだろうが、買い直すのにもお金がないので、古い版を論じる。
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男でも女でもない性・完全版

 性染色体、そして男性器と女性器が、性別を決めると思いがちだが、必ずしもそうではない。
ましてや、性差を決めるものは、実に多くの要素が複雑にからんでいる。
筆者にしたがえば、次のように分類されている。

@性染色体の構成  ]性染色体とY性染色体の組見合わせの構成をしているのか?
A性腺の構成  卵巣、精巣、卵精巣、線状性腺に分化しているのか?
B内性器形態  子宮に分化しているのか? 前立腺に分化しているのか?
C外性器形態  陰唇やクリトリスに分化しているのか? 陰嚢やペニスに分化しているのか?
D誕生したとき医者が決定する性  女の子なのか? インターセックス(半陰陽)なのか? 男の子なのか?
E戸籍の性  社会的な性的二元論
F二次性徴  月経が発現するのか? 勃起して射精するのか? どちらも発現しないのか?
G性自認  女性なのか? 男性なのか? インターセクシャル(半陰陽者)なのか? その他
H性的指向  女性を指向するのか? 男性を指向するのか? 両性を指向するのか? その他 P15


 本書が描くのは、男性とも女性とも言えない性をもった人間である。
男性器と女性器をもったり、成長の途中で反対の性的特徴がでてきたり、いわゆる男性とか女性にはあてはまらない。
生まれた人間を、そのままで1人の人間として認め、全員を等価として扱えば、性差別はおきないだろう。
しかし、他人と違うと差別がおき、生きにくくなりがちである。

 世の中は、男性と女性に分類されている。
だから、半陰陽者はどちらにも所属できずに、性自認が確立されず悩みつつ成人する。
人間をすべて等価として扱えば良いといっても、人間の自己認識は他者を鏡としてなされる以上、かならず違いを自覚せざるを得ない。
社会的な倫理としては、すべての人間は等価だが、自己認識の形成はそうはいかない。
他人と違うと、自己認識がうまくできないのだ。

 自分の身体が他人と違えば、本人にとっては大問題である。
じつは男性といっても、マッチョからナヨナヨしたのまで様々にあり、女性もアマゾネスから蚊トンボみたいなのまで様々いる。
しかし、半陰陽の人間にとっては、男性もしくは女性として、自分以外を括ってしまうのだ。
そこで、自分はどちらにも所属できなくなる。

 どんな差別でも、被差別者は差別している者と、自分とのあいだに線を引いて、その線を境に自己認識する。
黒人差別では、少し黒い人間は、もっと黒い人間とのあいだに線を引く。
人間の自己認識の構造として、これは必然・不可避なのだ。
ましてや、半陰陽は絶対的な少数者だから、その線の引き方が途方もなく、狭くしか引けない。
みんなで渡れば怖くないで、誰も最初には渡らない国民なのだろうし、衆目におびえてマスクをつける精神構造なのだ。
だから、違いを白い目で見る。
それが自己に跳ね返る。

 筆者は、男性として暮らしてきたが、思春期から成人しても、男性であることに馴染めず、半陰陽であることを自覚していく。
そして、長い苦闘を経て、現在のままで良いのだと、安心を獲得していく。
大変な道だったと思う。
いまでは、自らをインターセックス(半陰陽)原理主義者というが、遠い道だったろう。

 外見上の身体障害者とちがい、性にかんすることは羞恥心がともない、なかなか公言できない。
ゲイのように男性という性自認が、はっきりしている場合は、同性の相手がいればいいのだから、まだ救われやすい。
ゲイは男性もしくは女性の性自認であり、ただ性的な指向が異性ではなく、男性もしくは女性というに過ぎない。
しかし、半陰陽のように少数者だと、自己認識を確立するのは非常に困難だろう。

 社会には、男性か女性しか区別されないのだ。
いくら性別と性差が区別され始めたといっても、自己認識は社会性の反映である。
男性と女性しか目に付かなければ、それ以外の性自認は獲得できない。
肉体的に半陰陽である場合、どちらかの性を演じること自体が、心理的な負担であろう。

 サヨ(女性として生活する半陰陽の友人)が私に言った「アンタ男みたいね、女になりいな!」というセリフは「グッサリ!」ときて、私の傷をさらに深くした。私は男であることを強要され、それが性的トラウマになったというのに、今度は女にされるのか! ブラジャーやパンティをつけて、女性器に替えても、私の性的トラウマが癒されるとは思えない。それは、ただの「性と生の移行」にすぎず、「私は私」としてなんら変わらないからだ。P124

 どんな赤ちゃんにも、同じように可愛い。
そのままで良いんだよと言われても、自己認識の過程では、性別と性差のあいだで揺れ動くのだ。
筆者は性転換にたいして、必ずも肯定的ではない。
そうだろう。性転換とは、男性性と女性性を強固に認めるがゆえに、転換という選択肢がでてくるのだ。
それに対して、筆者は半陰陽であることにこだわる。
当サイトは性転換に必ずしも肯定的ではない。
筆者の立場を支持する。

 国が性転換者に素早い対応をしたのは、性転換することは、既存の男性原理・女性原理からは何の逸脱もないからだ。
性転換することによって、既存の性秩序を強化している。
しかし、国は半陰陽にたいして性チェックによって、男性か女性かに分類したがる。
性転換は、性秩序内の移行であるのに対して、半陰陽は秩序外の存在だからだ。
TRUTHという半陰陽の人が、最後に文章をよせて次のように言っている。

 ホルモン剤で大きくなる胸、丸くなる体、たしかに女らしい体になったかもしれません。けれども、自分自身の力で出てくるホルモンでそうなったのでなく、合成のホルモン剤で作られた体などあまり好きになれません。「胸が大きいね」と言われるときもありますが、薬のせいなので嬉しくもありません。いまは手術したことを後悔しています。どういう体であれ、自分自身の体で生きることが健康につながるし、いいことなんだと思います。P186

 半陰陽者は自然のままの肉体がいいという。
しかし、性転換者はあえて、自分の身体にメスをたて、ホルモン治療を受けるのだ。
性転換には国が承認を与えるが、半陰陽に対しては、出産直後にスクリーニングをかけてしまう。
筆者のように幸運にもスクリーニングからもれた人が、悩みながら半陰陽としての人格を形成していくのだろう。

 本書を読んだ後では、分析的で論理的な文章展開や組織を作りたがる資質など、きわめて男性的な筆者を感じる。
おそらく身体的な性別より、社会的な男性という刷り込みが、筆者をいわゆる男性的な感性に育てたに違いない。

 工業社会的な物つくりは、標準仕様を良しとしてしまう。
物造りにこだわる我が国では、半陰陽に限らず標準から逸脱する人間への締め付けは、今後、強くなるかも知れない。
しかし、もはや工業社会ではない。
情報社会では、個別性が大切なのだ。
個別性にこそ自由がある。
普通でない人も、普通に生きられる社会にしたい。
なんとか情報社会への自由を実現したいものだ。
  (2009.6.13)

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参考:
目黒依子「女役割 性支配の分析」垣内出版、1980
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006
礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987
アラン・ブレイ「同性愛の社会史 イギリス・ルネッサンス」彩流社、1993
プラトン「饗宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002
東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991

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