著者の略歴−Ph.D(社会学専攻、哲学博士) 1938年高知市に生まれる。1957年高知県立高知小津高等学投卒業。1959年 Briarcliff College(米国)卒業.1961年 Western Co11ege for Woman(米国)卒業.1967年東京大学大学院社会学研究料修士課程修了、1974年 Case Western Reserve University(米国)大学院博士課程修了.現在、上智大学文学部助教授。論文「現代家族の社会的ネットワーク」『社会学評論』No.98,1974年;『主婦ブルース』筑摩毒房,1980年「個人化する家族」勁草書房、1987. 筆者は高校卒業後、奨学金を得てアメリカの大学に渡り、アメリカの懐の深さに触れている。 そして、32才になってから、再度アメリカの大学で学んでいる。 この経歴は、本書に大きく影響を与えているように感じる。
当時のアメリカでは女性運動が台頭し、ウーマンリブからフェミニズムへの転換期にあった。 帰国後、筆者は上智大学で社会学の一部門として、女性学を講義し始めた。 本書はそれをもとにして生まれ、女に生まれたが故に直面した問題にぶつかった経過報告である、と謙遜している。 本書は生理的な女性性から離れて、女性が人間として自立しようとする色彩をもっている。 アメリカでのウーマンリブからフェミニズムへの転化が、生理的な女性性から離れたことを、忠実に反映している。 しかし本書の視点で、わが国のフェミニズムは成長してこなかった。 本書はやや総花的なところはあるが、わが国のフェミニズムでは実に珍しい論理的な本である。 アメリカで始まった女性運動の背景を、市民権運動、学生運動、社会的弱者・疎外者の叫びとたどり、女性解放運動へつないでいる。 そして女性運動をジャガーやストルールに従って、保守主義、自由主義、伝統的マルクス主義、ラディカル・フェミニズム、社会主義的フェミニズムという枠で考察する。 今日から見れば、ラディカル・フェミニズム以外は無効なことは明確だが、筆者の立場は明確にしていない。 わが国では当時まだ馴染みのなかった女性学を認知させるためか、本書では西欧事情の紹介という側面が強い。 性別に固有の役割があるものを性役割と呼ぶが、本書は女性が特有に役割あてられていた、という視点で書かれている。
と述べられているのは、概ね肯定できる。 しかし、本書が書かれた時代には、情報社会化が顕在化しておらず、労働における脱性化が進展していなかった。 そのため、高学歴女性の社会的な不平等が問題にされた。 この時期の女性運動は、すでに選挙権獲得などを目的としておらず、中産階級の女性たちの疎外感を背景としていたので、高学歴の女性に担われていた。 その意味では、近代社会の最後の疎外者が女性である、といった側面が強かった。 今日では、肉体労働は主流ではなく、頭脳労働へと転換し始めている。 そこでは、本書でもいうようにパトスでの表明は無意味になり、論理的な思考が不可欠である。 女性がいかに論理的な思考を身につけるかが、女役割を超えていく要となるだろう。 両性問の地位の不均衡がいずれの社会にも見出されることは、すでに多くの 国際比較研究によって証明されているといってよい。P92 と言っているにもかかわらず、総合女性史研究会などは原始古代には男女が平等だったと言いたがる。 本書は、わが国の状況を分析しているが、最後に次のように言っている。 日本社会は、女性の役割の中核として主婦役割を強調し、教育や職業の領域で、 この社会的定義にもとづく女性の位置づけが徹底された。これは、女性の潜在的能力を 抑圧することであり、例えば職業選択の自由といった、憲法で保障される基本的人権が、 女性に関する社会的定義によって侵害される、ことなのである。しかし、同時に、女性も また好むと好まざるとにかかわらず、与えられた役割を演ずることを通じて、右のような定義づけをする社会体系維持に貢献してきたことになる。P210 ここには、支配は非支配者によって支えられる、という政治学の基本が了解されている。 わが国のフェミニズムは、この視点を持つことなく、生理的な女性性にこだわり、女性は弱者であると言い続けた。 そのために、多くの女性から見捨てられてしまった。 しかし、フェミニズムは20世紀が生んだ最高の思想であることは間違いない。 フェミニズムによって近代は終焉を宣言させられたのである。
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