著者の略歴−1945年生まれ、奈良女子大学大学院人間文化研究科博士課程中退、奈良女子大学、京都文教大学を経て、現在大阪大学大学院文学研究科助教授。人文科学博士。専攻,女性史・社会史.著訳書に、「生殖の政治学」「制度としての<女>」(共著)、J・スコット「ジェンダーと歴史学」などがある。 女性の社会進出のうえで、人工妊娠中絶はリトマス試験紙である。 わが国では、戦後の人口対策として、中絶は優生保護法に始まっている。 いわば男性主導で、つまり主流の社会が主導するかたちで、人工中絶が始まった。 そのため中絶にかんしては、アメリカほど論争や抗争の対象になってはいない。 アメリカでは男性支配の社会に、女性たちが一つ一つ反旗を翻して、自らの権利を獲得してきた。 中絶はもちろん、女性参政権の獲得にしても、長い長い歴史があった。
本書はアメリカにおける、中絶をめぐる社会的な動向を展開したものである。 筆者は、フェミニストだと自認している。 そして、あとがきでも書いているように、中絶擁護派である。 私ももちろん中絶を無条件で擁護するし、プロチョイスの主張を支持するものである。 しかし、本書の読後感がどうも充実しないのである。 同じ立場に立つにもかかわらず、 この煮えきらなさは、わが国でフェミニストと名のる女性たちに共通のものであるように感じる。 形だけは立派な体裁をした本書だが、 混迷する現在のフェミニズムを象徴して、内容は事実の寄せ集めにすぎない。 筆者自身のフェミニストたる立場が、ほとんど不明なままである。 少し長くなるが、本書を丁寧に論じてみよう。 ちなみに私は、男女は社会的にまったく平等だと考え、 職業も社会習慣も男女別の選択を認めない立場である。 ERA(男女平等憲法修正条項)に反対する人たちの論旨が、次のように記されている。 離婚しても扶養料や子供の親権が認められなくなる。強姦罪がなくなる。同性同士の結婚が認められ、トイレは男女共用となり、刑務所でも男女が同じ房に入れられる。公立学校や州立大学では、女子も男子と同じ運動チームに入ることになる。さらに兵役にかんしても、女も男と同様に徴兵されて戦闘に参加することになるだろう。P186 筆者はこの記述に自身の論評をしないが、私はこの記述を支持する。 離婚時の慰謝料はあってはいけないし、強姦罪は傷害罪で対応できる。 同性同士の結婚はゲイの結婚として、もちろん認められるべきである。 トイレはユニバーサル・デザインだから、男女共用の個別ブースである。 刑務所で男女が同房であっても、何の不都合もない。 男女混合のスポーツは、女性の運動力を高めるから賛成である。 女性の軍隊への従事は、男性と平等にあるべきだと考えている。 男女の隔離は、百害あって一利なしである。 本書は19世紀の初頭から書き始められている。 当時は妊娠初期の中絶は、犯罪と見なされていなかったという。 それが徐々に変化し始め、19世紀の中頃から、男性の医者に主導されるかたちで、 中絶が非合法化されてきたという。 事実としてはそうであり、この記述は誤りではないだろう。 わが国でも好ましいとはされていなかったが、間引きがあったことは事実である。 しかし、当時の社会的な背景を欠いた記述は、誤解を招きやすい。 前近代を引きずった時代には、男性も女性もともに自然の掟に服していた。 人間の力が自然や神を凌駕するとは、誰も考えていなかった。 男女の労働力には多寡があったが、男性も女性も同じように労働力だった。 そして今日ほど、命が大切にはされなかった。 だから女性も発言力を持ちえた。 前近代のほうが、対男性では女性の地位は高かった。 近代にはいると、主体意識の登場とともに、他者を作為の対象とするようになった。 いいかえれば科学の誕生である。 産業革命をおこしたのは男性だった。 近代を切り開いたのは、男性だった。 産業革命は、自己と他者の分離を将来し、男性にとっての他者を浮かび上がらせた。 他者とは自然であったし、主体たる男性にとって、女性は他者であった。 シスターフッドによる産婆さんの出産から、男性産婦人科医への移動は、 女性の主体性を奪ったというが、それまでは主体性という概念はなかった。 筆者の歴史認識は、きわめて恣意的である。 産婆さんから男性産婦人科医への移動は、女性に充分な見返りをもたらした。 それによって女性の命が救われたのである。 乳幼児死亡率の低下や出産時死亡の低下は劇的であった。 当時中絶反対が、男性の医者によって推進されたのは、まったく必然である。 女性も男性医者を望んだのである。 そう考えないと、女性の主体性がない。 筆者は原始的な堕胎が、女性の命を奪ったことに入れ込むあまり、 女性たちがいかに困難な妊娠を押しつけられたかを強調する。 確かに今日から見れば、堕胎は危険だった。 しかし、それは医学が未発達だった時代のなせる業だった、としか言いようがない。 男性産婦人科医によって、命の大切さが説かれ、 女性たちは乳幼児死亡率の低下や、産婦の出産時死亡の低下という実利をえた。 19世紀のフェミニストたちが思い描いたのは避妊ではなかった。(中略)たいていのフェミニストが出産抑制の方法として認めていたのは、女が妊娠を望むときだけに性交を行いそれ以外は禁欲することであり、器具などの人為的な手段を用いた避妊には反対していたのである。この点は結始制度を否定して自由な性愛を主張したフリー・ラヴァーズでさえ例外ではなく、ウッドハルは「洗浄やお茶やトニック、その他さまざまな種類の器具」は「アメリカ女性に対する永遠の耽辱、永久的攻撃」であると述べ、彼女たちの機関紙の社説でも、「女たちが予防のために訴える手段は、自然な女性なら誰でも嫌悪を催すに十分」であると避妊を批判している。P18 したがって19世紀のフェミニストたちは、堕胎が行われる状況に対しては理解と同情を示しながらも、堕胎を奨励したり、女が自由に選択できる権利として合法化することにはまったく反対であった。堕胎をなくすための対策とは、スタントンが述べているように「女性の教育と市民権の獲得」によってより平等で節度ある社会を作っていくことであり、それまでは禁欲によって望まない妊娠が起きるのを防ぐことなのであった。P21 当時の女性運動家たちの動向を正直に書いているが、 ここから導き出されるのは、今日のフェミニズムの論点だろうか。 当時の女性運動家たちは、男性産婦人科医を支持するほうへまわり、望まぬ妊娠に困惑している女性を支援しなかった。 19世紀初頭の医者といっても、呪い師に毛の生えた程度といっては言いすぎだが、今日から見ればきわめて原始的なものだった。 安全な中絶ができるようになったのは、20世紀に入ってからである。 中絶がほんとうに争点となったのは、医学の進歩があったからである。 1950年代に入ると、堕胎に対する規制の緩和と中絶の合法化を求める動きが見られるようになる。いうまでもなく、中絶が非合法であることで最も直接的に被害をこうむっていたのは女性であったが、この時点で最初に合法化へ向けての声をあげはじめたのは彼女たちではなく、医師や精袖科医、公衆衛生や法律などの専門家であった。P37 すでに第2次大戦も終了している。 そして、1960年には、アメリカにおいてピルが解禁される。 ベトナム反戦運動などが高揚し、女性運動も自覚し始める。 このあたりから、今日に続く中絶をめぐる論争が始まるのである。 命の大切さを訴える近代的な思想からすれば、中絶は新たな命を絶つことであるから、認められるわけがない。 妊娠している女性の命が危険にさらされたときは、 中絶が許されるべきだとは、命の大切さを訴えるうえで自然に登場する。 誕生前の命より、すでに生きている人間のほうが大切だ、と誰でも思う。 アメリカの場合は、女性の命が中絶によって救われる、これが中絶が認められる最初の理由だった。 ここには経済的な理由や、女性の恣意的な理由が入る余地はない。 不埒なセックスで避妊に失敗したら、命は尊いのだから出産せよ、というのがアメリカだった。 1960年代後半から高揚した女性運動は、 女性にも男性と同質な権利があることを初めて教えた。 女性の権利とは、自己が主体として確立することである。 近代の初めで、男性が女性を他者と見たように、 女性も職場進出を間近に見て、男性を他者と見ることができるようになった。 そこで女性が自らのお腹にいる胎児をも、他者と見る視点を獲得したのだった。 自己決定権、ここから女性の権利としての中絶という言葉がでてくる。 自分の体を自由にする権利としての中絶、 この回路が本書の筆者には、ほとんど理解されていない。 事実を丁寧に追って、正直に記述はされているが、フェミニズムの台頭が理解できない。 女性であることに拘る筆者には、中庸を取ろうとして時代の論点が見えない。 以降300ページを費やして、アメリカの中絶事情を展開しているが、 中絶論争打開への模索として、最後には女性の「権利」論の隘路といったほうへと流れてしまうのである。 筆者はあとがきで、プロチョイス派の言説に違和感を覚えることがある、と正直に告白している。 その違和感が本書を書くモチーフでもあったようだが、 筆者の立場に立つかぎり、今日のフェミニズムは理解できないだろう。 何度も言うが、本書は正直な記述が多いし、筆者は真摯な学究であろう。 それを否定するものではない。 しかし、本書で問われるのは、筆者が拠り所としているフェミニズムとは何かである。 それが不明だから、本書の読後感が消化不良なのである。 女性の身体をめぐる問題だから、女性が被害者だと先験的に決めて、 筆者はそれをフェミニズムで解こうとするが、それは無理である。 19世紀におきた第1次の女性運動は、女性による女性のための運動だった。 筆者はこれを第1次のフェミニズムといい、 1960年以降の女性運動を第2次のフェミニズムという。 女性であることに立脚すれば、筆者の論も判らないではない。 しかし、プロライフとプロチョイスやERA(男女平等憲法修正条項)への対応は、 筆者も言うように男女間の確執だけではなく、女性間の確執でもある。 筆者は女同士の確執という緑の現実にたいして、単純なフェミニズム理論で割り切ろうとしない。 一見すると真摯ではあるが、それはフェミニズムへの裏切りであろう。 プロライフとはキリスト教に支持された保守派だという。そして、筆者はプロライフ派を次のように規定する。 プロライフを標榜する運動の中にも、自由資本主義を信奉する保守派勢力から核兵器や死刑にも反対するラディカルな平和主義者、合法的手段を通してのロウ判決転覆を目指すカトリックやプロテスタントから暴力も辞さないキリスト教原理主義者まで、宗教的にも政治的にもさまざまな立場の人々が含まれている。だが、多くの差異にもかかわらず彼らに共通するのは、現代社会が世俗的物質主義と利己主義に傾き、家族やコミュニティの持っていた助け合いや生命を慈しみ育てる心が失われつつあるという強い危機感である。そして彼らの考える家族およびそこでの両性のあり方とは、おおよそ次のようなものである。 中絶擁護派が、女は潜在的母親である以前に個人であり、子供を持つかどうかは人生の多様な選択肢の一つにすぎないと考えるのに対し、中絶反対派は男と女は根本的に違っており、子供を産み、その子を愛情をもって育てる母性こそ女を女たらしめる本質であると考える。男と女が結婚すれば子供を持つのは自然なことであり、性はもともと生殖のためにあるのであって、たんなる楽しみのためにあるのではない。したがって夫婦間であっても人工的避妊は望ましくないし、十代の若者や未婚者、あるいは既婚者が婚姻制度の外で楽しみだけを目的にセックスをするのは道徳的に許されないことである。同様に同性愛も自然に反することであり、夫と妻と子供からなる異性愛家族が社会の基礎単位であるべさである。また、男と女には本質的性差からくる役割の違いがあり、男は外で働いて妻子を扶養するのがつとめであるのに対し、女の第一のつとめは妻・母として家庭を守ることである。とくに子供を育てることは家族にとっても社会にとっても非常に重要な仕事であるから、女が外でフルタイムの仕事を持ちながら片手間で行えるようなものではない。こうした男女の性差や家族のあり方は神または自然によって定められたものであり、したがって時代や文化、個々人の信条を超えて普遍的に守られるべき道徳秩序なのである。P166 こう書きながら筆者は、233ページに至って とうとうプロライフ派フェミニストという言葉を登場させてしまう。 女性による自己決定権の獲得が、フェミニズムの根底なのだから、 プロライフとフェミニズムは、どう考えても両立しない。 筆者の思想的な立脚点が、実にあやふやである証を、ここで見せてしまう。 これは筆者だけでなく、わが国の大学フェミニズムの限界である。 女性の特有さを認めたら、男女の社会的な平等は一挙に崩れる。 性別は違っても、社会的には男女は等価である。 筆者のフェミニズムが問われても仕方ないであろう。 おそらく筆者は、女性による女性運動をフェミニズムと呼びたいのだろうが、それは女性運動に過ぎずウーマニズムである。 本書のなかで、フェミニズムという言葉は何度も使われている。 プロライフ派フェミニストという言葉が使われるのは、たった2回だけである。 プロライフ派フェミニストという言葉は語彙矛盾である、と心のどこかで知っているに違いない。 それだけ筆者のフェミニズム定義に動揺があるのだろう。 本書の底を流れる主旋律は、女性は被害者であり弱者であるというものである。 筆者は未だにウーマニズムからフェミニズムへと脱皮していない。 自己相対化ができないわが国の女性論者の典型である。 だから上記のような理解になる。 弱者のままでは自立できないから、 女性運動はウーマニズムからフェミニズムに転化するときに、弱者の運動であることを止めた。 女性は男性と同質の強者として立つ。 男性と同質の女性というからこそ、男性と同様な女性の権利なる運動が構築できたのだ。 だからどんなに叩かれても、フェミニストたちが権利としての中絶を放棄しないのである。 ここを見ないで、フェミニズムを語るのはおこがましい。 むしろ遅れた途上国の女性が、女性であるという理由で発言することによって、 先進国アメリカのフェミニズムの足をひっぱっているとさえ言える 本書はわが国の後進性を露呈している。 本書のもとは、お茶の水女子大に提出された博士論文だという。 博士論文として書かれた経緯が、フェミニズムの困難な状況をよく示している。 原ひろ子氏が指導教官であり、大口勇次郎、袖井孝子、舘かおる、竹村和子氏が審査にあたったといって、筆者は謝辞を書いている。 これではまるでフェミニズムが批判した男性支配の裏返しではないか。 フェミニズムはヒューマニズムと並ぶ偉大な思想である。 男性がヒューマニズムを獲得した。 女性はフェミニズムを獲得したのだ。 しかし、筆者の論ですすむと、イデオロギッシュな行動で自滅したマルキシズムと、フェミニズムも同じ末路を歩くのではないか。 筆者の視野は決定的に狭い。 残念ながら、筆者のフェミニズムには将来がない。 参考: エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 杉田俊介「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005年 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008年 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 増田小夜「芸者」平凡社 1957 岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006 スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004 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