著者の略歴−プリンストン大学高等教育研究所社会科学教授。 専門は労働史。著書には「カルモーのガラス工」 (H・B・アダムス賞費賞)、「女性・労働・家族」(ルイーズ・ティリーとの共著)がある。 ジェンダーの視点にたって、1980年代に書かれた歴史を見直す論文集である。 1980年代というのはアメリカが不景気であり、女性運動は出口を見失って、もがいているときであった。 運動の原点として、女性であることから抜け出せず、女性であることと人間であることの矛盾に悩んでいた。 本書には、そうした当時の背景が色濃く反映されている。 しかし、当時すでにこの問題に当面していたことは、やはりアメリカの女性運動は、わが国よりはるかに進んでいた。
権力闘争だってそうだし、文化の歴史においても女性は省みられることはなかった。 それでは人類の歴史の半分しか見ていない。 そう筆者は主張する。 これは誰でも言うことで、取り立てて目新しいことではない。 問題は、人間の歴史を男女の両者を含んだものとして、どのように確立するかである。 個別女性史として語れば、男性の歴史の周辺においやられ、小さな傍流としてしかみなされない。 当時、女性学が多くの大学に設置されたが、皮肉なことに女性学の開設自体が、女性の傍流化をすすめてしまうものだった。 本来は、経済学や政治学・歴史学のなかに、女性を含めた人間としての視点があればいいことなのである。 女性を女性として特別視することから、女性の自覚が始まり、その結果が自立へとつながっていった。 そのため、どうしても女性固有とか女性特有といった論点に立ちやすい。 しかし、女性性の強調は、人間としての普遍に向かわない。 筆者は、そうした歴史的な経緯を勘案しながらも、女性が男女平等へとすすめない現状にもどかしさを感じている。 筆者は、肉体的な差異に社会的な意味を付与する知だ、とジェンダーを規定する。 だから、ジェンダーとは時代や社会によってさまざまに異なっている、という。 私の言葉で言えば、ジェンダーとは社会的な性の違いつまり性差である。 そして、性別とは生理的な男女の違いを意味する。 この定義は、今ではほぼ定着したようだ。 アメリカ人である筆者は、なぜか西ヨーロッパの歴史を分析する。 そして、そこに女性の排除を見る。 女性も働いてきた。 とりわけ、衣類の縫製は女性の職場であり、お針子として多くの女性が生計をたてていた。 しかし、歴史の表面には女性が働いたことは表れなかった。 女性は評価の対象にはなっていなかった。 とりわけ、家庭と職場というかたちで争点がたてられると、女性は家庭での労働者ということになり、非熟練工という扱いになってしまった。 たしかに服飾の世界は、非力な労働者でも充分につとまる。 だから昔から、女性が多く働いていた。 しかし、服飾の世界だけで、完結した社会の論理は生まれない。 その時代その社会が、主な価値とするものは、すべての分野へと支配力を敷衍する。 その社会が肉体労働を主としていれば、服飾の世界が腕力を不必要としても、肉体労働の価値からは逃れられない。 わずかに、服飾界では女性が強いといった、相対的な特記がつくだけである。 たとえば、蚕糸工業がさかんだった京都や群馬では、女性が強いといったはなしが残る程度である。
1848年以前には労働者階級であれば男女を問わずどちらの集団も政治から締め出されていたのだが、その時点でも参加のための条件に男と女では違いがあった。男が直面していたのは富と財産にもとづく差別であったのにたいし、女は全体が一つのカテゴリーとして市民権の獲得をはっきりと、何度も何度も拒否されてきたのである。権利の要求の仕方にも、この支配的なジエンダーの相違が影をおとしていた。P168 どんなに歴史をひっくり返してみても、女性が主流になった事実はない。歴史記述においては、最後を支えるものがすべてを支えるのであり、女性は部分を支えるものでしかなかった。もちろん、女性も働いてきた。しかし、女性は二流としてしか記述されなかった。むしろ、女性の歴史が被差別の歴史であることは、今や誰でも認めるであろう。黒人差別や部落差別とは異なり、女性差別にはやむをえない理由があった。それは筆者も認めている。 「腕力の強さ」の差異がもはや必要ないとなれば、そしてそのような強さが男と女の賃金差の要因であったのだから、両性間にある種の平等が達成されるかもしれない。その結果労働市場はより開放的になり、「労働の自由」の正しさが実証されるかもしれない。P225 女性差別の歴史的な事実を掘り起こすことではなく、なぜ女性が差別されてきたかを考えることにおいて、筆者は決定的に力量が不足している。 男女は平等であるべきだという平等論と、女性の固有性を認めという差異論に、筆者は分裂している。 平等にこだわれば女性の固有性が失われ、女性と男性の差異にこだわれば女性が劣者であることを認めてしまう。 平等と差異のアイロニーに気づいていながら、平等に徹底できず、差異にもこだわってしまう。 1980年代という時代の限界だったのだろう。 彼女たち(=歴史家たち)はただ、「女」のもつ否定的な面は「家父長制」もしくは男性支配のせい、肯定的な面は女たちの抵抗や「働き」のおかげと説明するだけで、どちらの場合にも「女」が特定の文脈のなかでどのように社会的、政治的な意味を獲得するかについて検討してみようとはしなかった。この種の女性史は、女だけの異質な領域とでも呼ぶべきもの、実際、すでにその存在が前提されていたものが存在することを、証拠をあげて実証してみせた。P292 筆者は上記のような自覚をもっておりながら、本書もまた女性なる性別にこだわるという同じ落とし穴に陥っている。 よく勉強していると感じさせる本書だが、筆者の白人優位主義にはいささかの抵抗を感じる。 筆者は歴史の始まりを近代にしかおいておらず、歴史の主人公は白人男性だったという。 確かに近代の歴史はそうだろう。 白人男性が世界制覇し、白人女性もそのおこぼれに預かったのは事実である。 白人たちは裕福な生活を満喫した。 しかし、近代の歴史はごく短いものである。 近代以前は、西ヨーロッパは僻地だったわけだし、そこには文化は存在していなかった。 世界の中心は、中国であり、アラブであり、地中海だった。 こうした事実を考えるとき、黒人にはいくらか言及されているが、本書が白人男性と白人女性の関係でのみ考察しているのは、人種差別的といわれても仕方ないであろう。
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