著者の略歴−1933年生まれ。町工場の旋盤工として50年近く働きつづけている。一方、作家活動をつつづけている。主な著書に「大森界隈職人往来」「春は鉄までが匂った」「町工場・スーパーなものづくり」「粋な旋整工」「鉄を削る−町工場の技術」などがある。 旋盤工として働くかたわら、文章を書き続けてきた筆者が、「母の友」という雑誌に連載したものである。 1991年10月号から1993年3月号まで18回分と、「町工場で暮らして」という座談会を、1冊にしている。 書名から判るように、町工場で働く女性たちの聞き書きである。
こうした文章は、取材する人への思い入れと、自分の立場を重ねて、全面的に肯定するかたちが多い。 本書もその例に漏れず、自分が旋盤工という職人であったことと、同じような職種で働いてきた女性たちの賛美に終始する。 男女雇用均等法が施行され、女性も男性なみに働けるようになったが、職人の世界では雇用機会均等法など、まったくといっていいほどに無縁である。 繊維関係を除いて、職人の世界は男性だけしかいなかった。 それは多くの職人仕事が、腕力を必要とするものだったからだろう。 腕力がふりしぼられる世界に、非力な者がまじると危険ですらある。 職人の仕事には、居職と出職がある。 居職とは自分の家で仕事をするもの、出職とは現場へと出向いて仕事をするものである。 出職は別として、居職はむかしから男性だけではなく、女性も仕事を手伝うことが多かった。 たとえば、下駄屋は典型的な居職だが、女性でも簡単な鼻緒のすげ替えくらいはやった。 それは仕事が目の前にあり、自分の身体があいていれば、誰でも手を出さずにはいられないという、簡単な理由からである。 職人たちは気むずかしく、男尊女卑のように見えるかもしれないが、むしろ職人たちは性別にはこだわらない。 ただ仕事ができれば、それでいい。 誰がやっても、いい仕事はいい仕事。 それが職人の世界である。 だから、女性がやろうと、男性がやろうと、仕事さえ良ければいい。 職人仕事の性格上、腕力が必要だったので、多くは男性が主だったにすぎない。 女性の職人がいなかったわけではない。 非力な女性は、織物といった腕力が不要な世界に生きた。 服飾界には、女性の職人はたくさんいた。 町工場とは腕力の世界である。 主になっていた男性に万が一のことがあると、その稼業はたちまち断絶してしまう。 しかし、腕のたつ職人をかかえ、得意先などに恵まれたりすると、主人が死んでも残った職人を、まとめていくことが期待される。 そこで良くできた番頭さんに後押しされながら、女性も職人仕事に手をだすことになる。 そして、いつの間にか先代の主人に代わって、女性が主人役をつとめることになる。 本書にもそうした例が多く掲載されている。
しかし、NC機械、つまり数値で制御する機械が登場してからは、事情が変わった。 プログラムさえ上手くやれば、腕力はそれほど必要ではなくなった。 ここで女性の台頭する余地がうまれたが、職人の世界は男性のものといったイメージがあるので、なかなか女性の参入はなかった。 最近ごく少数の女性が、参入してくるようになった。 こうした女性には、かならず理解のある男性が近くにいるのだが、本書には男性の影が薄いのはやむを得ないところだろう。 私も職人だったから言うのだが、職人が消えていくのは必然である。 決して社会が悪いわけでも、お客さんたちの理解がないからでもない。 職人仕事というのは、結局のところ繰り返しである。 どんなに優れた仕事でも、くり返すことによって身につけた技術が、その基底を支えている。 繰り返しの中での、ごく小さな工夫、それが職人の創意と呼ばれるものだ。 決して大発明ではない。くり返す仕事は、機械に代替されることは目に見えている。 また、代替されるべきである。 人間の頭脳を使うべきであって、肉体が主に使われるのは不幸である。 コンピューターが普及し始めたので、くり返す仕事は機械のほうが、はるかに堪能になった。 そして職人仕事にも、コンピューターつきの機械が入ってきた。 コンピューターが使えれば、肉体的には非力であっても、職人仕事ができるようになった。 だから今や、女性も働けるのだ。 NC機械にふれながら、本書にはそうした視点はまったくない。 わずかに「CADに挑む青春」という例があるだけだが、CADは道具であり、問題はCADを使ってする設計なのだ。 今後の仕事は、いかに設計するかである。 CADに挑む青春というタイトル自体が、ことの成り行きを理解していない証明である。 そうはいっても、本書のような情報がひろまって、少しずつ職業における男女差は、消失していくに違いない。 しかし、である。 本書の論調に、私は賛成しかねる。 今後、職人仕事は機械に代替されるにもかかわらず、筆者は職人仕事を自分の手中からはなさない。 やっぱり手仕事が良いというわけだ。 なんという懐古趣味だろうか。 懐古するこの姿勢が、職人を殺すことに気づかないのだろうか。 過去を懐かしむのでなければ、活字にならないのだろうか。 多分そうだろう。 過去はすでに生きてきたものだから、多くの人に共感される。 過去を舐めあって、人は生きるのだろう。
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