著者の略歴−1940年アメリカのスミス大学卒業。1944年ハーバード大学大学院建築学修士課程修了。スーダンのハルツームで行なわれたセミナーのWHO(世界保健機関)特別顧問で、ハルツームWHO事務局メンバー。現在「WIN(国際女性ネットワーク)ニュース」編集長。〔著書〕『お産の絵本』『女性の生殖器切除』『女性開発機関の国際住所録』『カトマンズ渓谷の町』『都市の機能』『都市の言葉』 割礼というと、ふつうは男性に行うものを想像する。 ユダヤ人が割礼をする。 それが決め手になって、ナチの弾圧に使われたとか、といった話はよく聞く。 しかし、本書は女性に対して行われる割礼である。 本書が扱っている割礼の範囲は、きわめて広い。 因習に呪縛され、と副題があげられているが、必ずしも因習によるものだけではない。 近代化した西洋的な手術もなされている。 しかも、それが衛生計画の一環としてさえ行われていると、本書はいう。
アフリカや中東では、女性の性力についての神話がはびこっている。その中で、一般に、女性は性欲をコントロールできないとか、セックスに取り付かれていると信じられている。処女を守り、家族の名誉と生活を守るため、女性 器を切除したり、陰部封鎖しなければならないといわれる。P23 上記の引用だけで、ことが錯綜している事情が分かるだろう。 今日の我々から見れば、女性器の一部を切除したり、陰部封鎖することは、まったく馬鹿げたことだと思う。 女性だけでなく、男子の割礼ですら、私には理解しがたい。 ましてや、強制的に女性の肉体に人工的な手を加えることは、想像の外である。 こう言うと、必ず入れ墨やピアースが反対例に挙げられるが、下記の理由により問題が違うと思う。 本書ではスーダンの例が、詳しく取り上げられている。 本書が言及していることは、おそらく事実だろう。 私もこうした因習は間違っていると思うし、やめることに賛成である。 しかし、それを止めさせる方法となると、絶望的な困難が立ちふさがる。 女子割礼の背景は、単に因習だけだとは思わないからである。 その社会を支配している価値観は、単に信じられているという理由だけでない。 その価値観に従うことが利益を生みだす構造を強固に作っている。 因習の打破とは、信じるか否かの個人的な変心ではない。 利益を生みだす社会構造の組み替えなのである。 しかも厄介なことに、この利益の配分は女性も手にしており、決して男性だけが加害者ではない。 男性の生殖器を切り取る閹人は、20世紀に入ると急速に減った。 宦官が経済的な利益をもたらさなくなったから、誰も宦官に志願しなくなったのである。 宦官には奥さんがいたことを思いだして欲しい。 インドではヒジュラとして残っているが、それはヒジュラになることが未だに利益を生むからである。 女性への割礼も、それを行う者が利益を手にするのだろう。 だから女性割礼がなくならないのだ。 女性割礼を行う者が男性だからといって、それを女性への人権侵害といった視点で語ることは疑問である。 情報社会に入った国は、途上国にたいして人権が保障されていない、といって批判する。 しかし、人権とはきわめて近代的な観念であり、途上国では人権なるものはない。 人権がないから農耕社会なのであり、人権が云々されれば、そこは近代社会なのである。 だから、人権が守られていないと批判しても、批判された方は何を言われているか分からないのだ。 わが国の監獄にたいして、西洋諸国から囚人の人権が守られていないといわれる。 が、わが国ではそれに賛同する人はどのくらいいるだろうか。 私は日本の監獄は、懲罰的な思想に支えられた前近代的制度だと思う。 しかし、多くの人は犯罪者は厳罰に処されても仕方ない、と考えているだろう。 犯罪者の人権擁護といっても、わが国では通りが悪い。 女子割礼に私は当然のこととして反対する。 しかし、それを女性への人権侵害ととらえると、反対の論理はかえって弱くなると思う。 女子割礼はフェミニズムが喜びそうな事例だが、フェミニズム的視点では女子割礼の撲滅には無力だろう。 農耕社会的もしくは工業社会的な視点で、女子割礼に反対すべきである。 女性の生殖機能への侵害とか、単なる暴力行為として反対した方が有効だと思う。 参考: 杉田俊介「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005年 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008年 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 増田小夜「芸者」平凡社 1957 岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006 スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004 田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001 末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994 梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988 ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002 まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001 J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957 ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965 クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966 松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984 モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992 小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992) 熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000 ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004 楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005 山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006 小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001 エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997 シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000 シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001 中村うさぎ「女という病」新潮社、2005 内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008 三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004 大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001 鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004 片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003 ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006 ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001 山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972 水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979 フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993 細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980 サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982 赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005 マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994 ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992 清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002 モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992 R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987 末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994 鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000 荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001 山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007 田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000 ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952 スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994 井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995 ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009 佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994 斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003 光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994 熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000 ミレイユ・ラジェ「出産の社会史 まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
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