匠雅音の家族についてのブックレビュー    生きながら火に焼かれて|スアド

生きながら火に焼かれて お奨度:

著者:スアド  (株)ソニー・マガジンズ、2004年  ¥1600

 著者の略歴−中東シスヨルダンの小さな村に生まれる。17歳のとき初めての恋をし、子供を身ごもったため、家族の名誉を汚した罰として義理の兄から火あぶりにされる。重度の火傷を負いながらも奇跡的に救出され、20回以上の手術を経て、現在ヨーロッパで夫と子供たちとともに新たな人生を歩んでいるが詳細は公表していない。著者は本書刊行後も「名誉の殺人」の貴重な生存者として、命を脅かされているすべての女性たちのために、また今なおつづく残酷な因習を世に知らしめるために、命を賭けて証言しつづけている。本書は偽名で書かれている。
 親が子供を捨てて家出することはあっても、自分の娘を焼き殺す。
そんなことは、現代の我が国では、考えもつかないだろう。
しかし、時代を遡れば、親は自分の子供を殺していた。
かつて子供は親の所有物だった。
自分の産んだ子供は、女親にとって自分の肉体の一部だった。
だから、その命を断つことも思いのままだった。
TAKUMI アマゾンで購入

 今では子供は愛情を注ぐ対象であり、労働力でもないし、老後の保障でもない。
自分の人生に、子供が邪魔になったときは、子供を捨てるだけである。
多くの親は、愛情を注ぐ対象を失いたくないから、子供を殺すなど思いもつかない。
しかし、生産力が低かった前近代にあっては、子供は愛情の対象ではなく、むしろ労働力であり、大人たちの老後の保障だった。

 必要な労働力が確保され、老後の保証が確立されると、余分な子供は不要であり重荷となった。
土地の縛りが強かった前近代では、親が子供を捨てて家出することはできなかった。
重荷となった子供は、養い続けることができないから、親自身の手によって抹殺された。
子殺しの例は世界中に存在する。

 子供が不要になっても、親たちは性交を止めることができない。
性欲のままに性交をすれば、避妊技術が未発達だったので、子供ができてしまう。
余分な子供は重荷となったので、不要だと簡単に間引かれたのである。
前近代にあっては、こうした事情は世界中で変わらなかった。

 1970年代後半、中東のシスヨルダンで、両親の指令によって女性が焼かれた。
大火傷をおって死ぬ寸前だった女性が、スイス人女性ジャックリーヌによって救い出された。
そして、20余回の手術を経て、西洋社会で暮らすようになった。
本書はその貴重な報告である。

 母は床に羊の皮を敷いて横になり、出産している最中だった。横には叔母のサリマがいた。母の叫び声に続いて赤ん妨の泣き声が聞こえたかと思うと、母はすぐさま上体を起こしてひざまずき、生まれたばかりの赤ん坊に羊の皮を押しつけた。赤ん坊が体をばたつかせるのが見えた。しかし、すぐに動きは止まった。次に何が起こったのかはわからない。赤ん坊は家からいなくなった。P26

 母が殺した赤ん坊たちのことを、私は自分自身と重ねあわせて考えるようになり、父が羊や鶏を殺すのを見るたび人目を逃れて泣くようになった。(中略)いつか私の番、あるいは妹の番がくる。両親は殺そうと思えば、好きなときに私たちを殺すことができる。成長していようが子供だろうが、そんなことは問題ではない。私たちに命を与えたのは両親なのだから、彼らにはその命を消す権利もあるのだ、 と。P28

 我々は、近代も相当に進んだ社会に生きているので、人間は誰でも皆平等で、等しく生きる権利があると考えている。
もちろん両親といえども、子供の命を奪うことは許されない。
しかし、前近代ではそんなことは誰も考えてはいなかった。
親は子供を殺せた。
間引き=子殺しは世界中にあった。
人間という概念自体、西洋近代が生み出したもので、前近代にあっては人間という生き物はいたが、人間という概念はなかった。
余談ながら、だから西洋人たちは安心して、有色人種を奴隷にできたのである。

 本書の主人公スアドには心から同情する。
生きながら焼かれることがあってはならない。
ましてや親が子供を殺すなど、考えるだけでも恐ろしいことである。
本書の主人公スアドは、本当の幸運に生きた。
スイス人のジャックリーヌがいなかったら、彼女は間違いなく、この世にいなかった。
イスラムの世界では、いまだに子殺しがはびこっている。

 前近代では、女性が酷い仕打ちを受けることが多かった。
文字も不要で学校もなく、日々を繰り返して生きた前近代では、力が剥き出しだった。
生きる上で、肉体的な腕力が不可欠だった前近代にあっては、肉体的な劣者は生きる優先権が低かった。
非力な性と言えば、女性である。我が国でも間引きの対象になるのは、女性であることが多かった。

 本書を書いたスアドは、未婚で妊娠したために、両親の指令に従った義兄に焼かれ、殺されそうになった。
幸いなことに、辛うじて生き延び、病院に担ぎ込まれた。

 母親はそう言うとコップを取り出した。ベッドのそばにはテーブルも何もなかった。ということは黒いかごの中から取り出したのだろうか。いや、母がかごの中をごそごそする様子もなかったから、病室の窓際に置かれていたコップ、つまり、病院のコップだ。しかし、母がそのコップに何を注いだかは見えなかった。
「おまえがこれを飲まないと、弟が厄介なことになるんだ、警察が釆たんだからね」
 母は私が泣いているすきにコップに何かを注いだのだろう。
「さあ、飲むんだ……母親の命令だよ」P146

 
広告
 母親はスアドを殺すために、病院までやってきた。
そして、大やけどに苦しむスアドに、毒薬を飲めと命じたのである。
本書は女性差別を告発するために、執筆されている。
たしかに前近代では女性が被害ではあったが、加害者もまた女性である。
単に女性差別の問題として、本書を読むことはできない。
偶然に通りかかった医者によって、コップがはじき飛ばされて、彼女は毒薬を飲まずに済んだ。

 「名誉の殺人」と呼ばれる犯罪は、前近代では日常のことだった。
掟を破った個人の命よりも、共同体の掟の方を守る方が重要だった。
婚前交渉が禁止されている社会で、妊娠したら世間の笑いものになる。
共同体の拘束が強烈だから、個人が成立せず、掟に従わないと生きていけない。
掟を破った人間は、家族が始末する。
その犠牲になるのは、必ずしも女性とは限らない。

 前近代が色濃く残った我が国でも、つい最近まで女性の処女性は問題視された。
女性にはもちろん不純異性交遊は禁止されたが、男性にも他家の娘さんを傷物にしないように、大きな圧力がかかっていた。
女性が初めて性交をすると、傷物になったと考えたのだ。
財産の相続が血縁に従っているので、親子の血縁は明確に証明されなければならない。

 血のつながりを証明する=父性を確認するため、女性の性交を抑制したのである。
そのため、財産のない家の女性は、誰と性交しても咎められなかった。
そして、最初から財産をあてにしない売春婦には、有り余る性交の自由があった。
売春婦は財産相続の世界からは排除されていたが、排除されたがゆえに彼女たちは自分で稼がなければならなかった。

 (「名誉の殺人」によって殺される)女性たちは個々の「文化的」価値観を持つ社会に属しており、しかも殺人者を法が守る国もあるからだ。こうしたケースでは、飢饉や戦争、難民の救出や感染病に対して起こるまうな政治的な運動が起きないが、それも理解できないことではない。P202

 と、ジャックリーヌは言う。
イスラム教の指導者やカソリックの司祭たちは、「名誉の殺人」は教義とは無関係だという。
しかし、女性が殺されるのは、圧倒的にイスラムの国々である。
女子割礼」が行われるのも、イスラム諸国が多い。

 イスラム諸国では、女性が表に出ない。
喫茶店にいるのは男性ばかりである。
女性は家の中におかれ、外出にはヴェールをかぶり、介護者がつく。
たとえ、イスラム教が教義として女性差別をしないといっても、現実のイスラム社会は女性差別の見本市である。
コーランの教え云々ではなく、現実のイスラム社会を見ると、女性を差別するイスラム教徒とは共に暮らせないと思う。

 イスラム社会はいまだに前近代にある。
だから共同体の掟に逆らった人間は、命を奪われる。
スアドとジャックリーヌの勇気は、充分に称えられるべきだ。
と同時に、彼女たちの行動はイスラム社会に刃向かったことになる。
彼女たちの行動を支持する当サイトは、明らかに近代の価値観に立脚している。

 前近代の人だって、喜んで子供殺しているのではない。
生かせるものなら、すべての子供を育みたいだろう。
しかし、生存許容限界が小さな前近代では、誰もが等しく生きてはいけなかった。
命よりも掟が優先することによって、多くの人が生きながらえた。
だから前近代の人々は、掟に従ったのだ。
前近代では命の重さが、きわめて軽いくないと、多くの人々が生きていけなかったに過ぎない。

 前近代の外にいる我々は、スアドたちの行動を支持することにって、イスラム社会などに敵対する結果となる。
敵対することを承知で、スアドたちを支持するが、すべての命が平等だという考えは近代のものだ。
近代と前近代の混在する現代社会。両者の価値観は、圧倒的に違う。
情報社会化すれば、前近代とはますます確執が多くなるだろう。
 (2004.11.24)
広告
 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ
参考:
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社、2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002年
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992)
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009
佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994


「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる