匠雅音の家族についてのブックレビュー   美の陰謀−女たちの見えない敵|ナオミ・ウルフ

美の陰謀 女たちの見えない敵 お奨め度:

著者:ナオミ・ウルフ−−TBSブリタニカ、1994年

著者の略歴−アメリカの有名なフェミニスト。1962年生まれ。イェール大学卒業、オックスフォード大学のニュー・カレッジで博士号を取得。以後、英米の諸誌にエッセイや詩や書評を発表。1991年刊行の「美の陰謀」THE BEAUTY MYTHでデビュー。これが全米で大センセーションを巻き起こし、一躍彼女はベストセラー作家となる。今では全米各地のキャンパスの人気者で、講演依頼も殺到している。
 上梓されて10年近くたった本を、否定的に批評するのはマナーに反した行為かもしれない。
しかし、ナオミ・ウルフといえば有名なフェミニストであり、
その威光は今でも衰えていないとすれば、冷静な批評も許されるだろう。

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美の陰謀―女たちの見えない敵
 本書がわが国で出版されたのは1994年であるが、アメリカでは1991年である。
この頃はまだ80年代のフェミニズムの熱気が残っており、本書は80年代の感覚をそのまま引きずっている。
アメリカにおける80年代のフェミニズムを一言で言えば、男性支配社会への告発だった。
そこでは、女性は支配されるものであり、女性は被害者だというものだった。
そのため、女性運動は女性が弱者であることを謳い、男性攻撃が運動の中心だった。

 この時のフェミニズム運動は、きわめて大きな影響をもたらした。
本書でも述べられているように、女性にとって大きな成果を獲得した。
しかし、自由と権利を獲得した女性たちだが、思ったほどの開放感をもてない。
私はそれを女性が差別されていた根本的な理由、
ならびに女性が解放されなければならない理由の考察、の2点が欠如していたためだと考える。

 それにたいして、筆者は「女らしさの神話」は取り除かれたが、
そのあとに「美の神話」が滑り込んだせいだという。
そして、美の神話に追い立てられ、またもや女性は弱者に追い込まれているという。
それを「仕事」「文化」「セックス」「拒食」「暴力」といった面から考察する。

 筆者も認めているように、90年代に入ってフェミニズムは急速に凋落した。
まず、女性自身がフェミニストであると名乗らなくなった。
これを筆者は男性支配社会からの抑圧のせいだといっているが、
必ずしもそればかりではなく、女性運動の基本的な部分の脆弱さの表れでもある。
なによりも、なぜ女性が抑圧されてきたのか、なぜ今女性が台頭しはじめたのかの、根本的な考察がなかった。
だから簡単に凋落したのである。

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 近代以降、労働対象が土地という限界がはずれたため、
男性社会において極大利益の追求が始まった。
そこでは男性たちは常に追い立てられ、競争させられるようになった。
生産労働を義務化された1人の男性にとって、
社会は疎外されたものとして登場するようになったのである。

 女性は社会化されるのが遅れ、80年代に社会的存在であることを獲得した。
男性の立場も大したものではないと気づけば良かったのだが、
被害者意識から抜け出せなかった当時の女性は、男性が自分たちを抑圧し続けている、と考えてしまった。
そして、女性として社会的な自立を勝ち取ろうと決意しなおした。
本書は、美の神話を乗り越える方策として、

  あらゆるフェミニズムの波がそうであるように、同輩の仲間と共闘するものでなければならない。P346

と述べ、「ただ一つの拠り所は女としての連帯」だという。
ここがあまりにも80年代的だし、決定的に間違っている。
女の連帯は、男性支配を告発するのには好都合だったが、女性が自立するにはかえって足枷になる。
人間としての尊厳を求めるとき、男性かとか女性かといった区別はない。
とすれば女性の連帯を語る地平はもう終わっている。

 成功体験は自らを保守的にする。
女性運動もそうだった。
本書のような立論をする限り、第2次フェミニズムは女性によって放擲されるのは、当たり前なのである。
本書のレベルにとどまると、前進できないと一般の女性たちが認めてしまった。
それが90年代のフェミニズムの凋落だった。

 男性のヒューマニズムと女性のフェミニズムがそろって、近代は終焉を迎えた。
そして、現実とは切れた観念が支配する、情報社会へと入ったのである。
そこでは男性とか女性といった括りではなく、個人としての人間が問われるのである。
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参考:
杉田俊介「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫、2008

下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
増田小夜「芸者」平凡社 1957
岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992)
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009
佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史 まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997


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