編著者の略歴− カナダ人著述家。1949年スイス・チューリヒのユダヤ人家庭に生まれる。幼くして家族とともにカナダに移住。弱冠11歳にして新聞40紙に連載されるコラム「ヘンリーに聞け」を執筆。1982年にはトロント大学で英文学博士号を取得した。1984年に開発したボードゲーム「スクラブルズ」は5カ国語に翻訳され全世界で700万部が販売されている。反・新世界秩序派の著述家としては積年の研究結果が主著『Illuminati:The Cult that Hijacked the World(邦訳『イルミナティ世界を強奪したカルト』小社刊)によって結実、また、初めて性にまつわる陰謀を本格的に論じた本書(『Cruel Hoax:Feminism and the New World Order』)も大きな話題となった。公式ウェブサイト:www.henrymakow.com フェミニズムと同性愛を、批判のターゲットにしているところに、筆者の勘の良さを感じる。 イルミナティとかロンドン・シティを拠点とする金融エリートといった、オカルトチックな話は置くとして、経済的な格差の拡大と人口の減少をみれば、筆者のいうことも判らないでもない。 もちろん、本サイトは筆者の立場とはまったく反対で、フェミニズムとゲイを支持している。 フェミニズムとゲイ支持を確認したうえで本書を読むと、筆者がいうのは理解できる部分が多い。 生半可なフェミニストの主張より、はるかに一貫性がある。 「フェミニズム」は、女性のための運動というのは単なる名目で、男性と女性の両方を中性化して、社会の基本単位である家族を崩壊させることが本当の目的だ。 と表紙裏に書かれている。 このフェミニズム理解の前段は正しい。
性別によって役割が違うことによって、男性らしさ女性らしさが成り立っていた。 女性が職場にでれば、男性と競争しなければならず、男性化するのは不可避である。 女性が経済的な自立を目指せば、結果として男女が中性化していくのは当然である。 そして、男性も女性が同僚になってくれば、女性に理解を示さなければ仕事が円滑に進まなくなる。 ここで男女の違いは、より小さくなっていく。 男性が男性性に拘ったり、女性が女性性に拘っていれば、職業人として上手くいかなくなる。 とすれば、男女ともに中性化して、妥協点を捜すことになろう。 これは当然の流れである。 女性が男性と同じ労働環境を求めている限り、男女が中性化しようとも、女性の主張は入れるべきである。 しかし、後段は留保が必要である。 つまり、家族の内実をどう捉えるかによって、結論が変わってくる。 もし、この家族が核家族を意味するのなら、筆者の言う通りであろう。 フェミニズムを待つまでもなく、今後、核家族は崩壊していく。 それは間違いない。 家族の姿は歴史的にいつも同じではない。 その時代の産業構造に合わせて、家族の形は変化していくものだ。 近代の入り口で、農業生産に適していた大家族が解体し、性別役割分業の核家族になっていった。 情報社会化すれば核家族は変化せざるを得ない。 核家族が崩壊していくのは、フェミニズムのせいではない。 しかし、人間が有性生殖する生き物である限り、家族がなくなることはない。 農業社会から工業社会へと変わったときに、大家族から核家族へと変わった。 同じように情報社会への変化では、核家族から単家族へと変わるのである。 生産組織であり経済的自立性の高かった大家族から、経済的自立性の弱い核家族になったので、国家が核家族の面倒をみるようになった。 つまり、大家族の時代には社会福祉がなかった。 保険もなければ、年金もなかった。 だから、大家族がすべて面倒をみたのである。
生産組織ではない核家族は、性別役割分業を原則としたので、男性が倒れたら一家の生活が立ちゆかない。 そこで、失業保険や年金などで、国家が核家族を支えなければならなくなった。 同じように家族というが、大家族と核家族では、その内実には天地ほどの違いがある。 その違いを無視して、家族というのは盲目的な発言である。 核家族は単家族に姿を変えるに過ぎず、家族が崩壊して消滅することはない。 フェミニストたちは意識していないだろうが、女性が台頭した現象と同時並行で、結果として核家族は崩壊するのである。 結果を先取りして核家族の擁護を言うか、結果も分からずに女性の自立を訴えるのでは、どちらが賢明だろうか。 単家族論を無視するフェミニズムよりは、筆者のほうが時代が見えていると言わざるを得ない。 異性愛者の選択できるライフスタイルとして「同性愛」を普及させようとしているのも、新世界秩序に順応する新種の人類を創造するための、金融寡頭権力による厚顔無恥な詐欺の一環である。 というのが表紙裏の続きである。 筆者の論理としては、これはおかしい。 フェミニズムを否定するのは、結果が悪いからだという。 筆者の論理に従えば、同性愛者という新種が新世界秩序に順応し、全員が幸せになれば問題はないだろう。 筆者の異性愛という好みが無視されたから、同性愛を否定しているに過ぎない。 同性愛というだけなら、いつの時代にも、また世界中にあった。 少なくとも、成人男性が若い男性を性的な対象にした男色は、太古の時代から存在した。 本サイトでは男色や少年愛をホモと呼んでいるが、ホモのいることが普通の歴史だったのである。 ホモが禁止されるようになったのは、西洋近代だけといっても過言ではない。 ホモに代わって、西洋近代に登場したのはゲイである。 ゲイは成人男性と成人男性との性愛関係である。 成人男性の全員がゲイになれば話は別だが、そんなことはあり得ない。 ゲイは少数派である。 少数派の嗜好を許容するのが、近代社会であり、豊かな社会である。 筆者の論の欠陥は、事実と事実から生じる観念の距離に無自覚なことだ。 男性とか女性といった性別は事実だが、男性性とか女性性は性差という観念である。 事実は永遠に変わらないが、観念は時代によって変わる。 もっとも、この距離に無自覚なのはフェミニストも同様だが、筆者の場合は論証が陰謀説に脱しているのが弱いところである。 本書に同感するのは、自立は女性にとって厳しいことだと言う点である。 筆者も女性兵士の困難さをいっているが、非力な女性が男性と同じ装備を背負うのは大変だろうと思う。 しかし、男女平等とは、女性にも等しく社会を背負うことを要求するのである。 女性が自分の好みでビキニを着ても良いが、目的のためには重装備を身に纏わなければならないこともある。 それが平等である。 (2011.5.15)
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999 デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005 氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995 岩田準一「本朝男色考」原書房、2002 海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005 キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也「ゲイ・スタディーズ」青土社、1997 ギィー・オッカンガム「ホモ・セクシャルな欲望」学陽書房、1993 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「男同士の絆」名古屋大学出版会、2001 スティーヴン・オーゲル「性を装う」名古屋大学出版会、1999 ヘンリー・メイコウ「「フェミニズム」と「同性愛」が人類を破壊する」成甲書房、2010
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