著者の略歴−1938年、岡山市生まれ。河出書房新社編集部を経て、作家に。著書に『黄色い国の脱出口』『告別の儀式』『巫女たちの夏』『ハルハ河幻想』『北条百歳』『西光万吉の浪漫』『作家と差別語』『資料浅草弾左衛門』『浅草弾左衛門(全6巻)『弾左衝門とその時代』『弾左衛門の謎』『江戸の非人頭車善七』『車善七(全3巻)』『江戸の城と川』『江戸東京を歩く 宿場』『部落差別はなくなったか』『乞胸』『吉原という異界』『四谷怪談地誌』『貧民の帝都』『古井戸の骸骨』など多数。 貧困はいつの時代にもあった。 のどかに描く人がいる江戸時代は、現在よりはるかに生産力が低かったので、みんな貧しかった。 もちろん白米を食べることができたのは、一部の人でしかなかったのは言うまでもない。
貧困が差別を意味するのではない。 女性差別を見れば判るように、貧乏人だからと言って、それだけで差別されるわけではない。 筆者は差別の構造を、近代社会の出発にみる。 コジキであることを意味する「物乞い」は、非人組織の「専業」になる。物を乞う行為(日勧進)が、非人身分の「役」になったのである。江戸に無宿が流れこみ、これをつかまえては、非人にしているうちに、いつしか、非人のほうが、同じ賤民のエタ身分よりも、ずっと多くなった。幕落体制下では、このように、仕事(役)と身分は、非人身分にいたるまで、わかちがたくむすびついていた。 維新後。 「四民平等」で、士農工商の四身分の「身分」が廃止になつたあとでも、仕事のほうは残る。仕事までも、やめるわけにはいかない。農民は、ひきつづき米や麦を作り、野菜を栽培する。商家の生活も、丁稚修業もふくめて、徳川のころとそんなに変わらない。しかし、明治維新で、「身分」とともに「仕事」をもなくした階層がふたつある。 武士階層と賤民階層だった。P18 武士階層は支配階級に変身しながら、大部分は消滅していく。 しかし、賤民階層はそうはいかなかった。 貧困の度が増して、特殊な階層として弾きだされていった。 そこで、近代の目をもった人々、たとえば徳富蘆花などによって、貧民窟の人々として発見される。
それと同じように、賤民階層と自分たちとは、別種のものと認識されたのである。 つまり、江戸時代には意識されなかった感覚が、別種の生き物=異形の人として、認識され始めた。 ここで差別の基礎が成立した。 貧乏人を貧乏人と感じるのは、事実認識に過ぎない。 しかし、自分とは別種の生き物と感じると、それ自体が差別へとつながるものである。 そして、貧乏人は可哀想な人だから助けようとなるか、貧乏は自己責任であるとなるかは、同じ近代的な認識の表裏に過ぎない。 他社を異形の人と見る視点が、差別をうむのだと筆者は言う。 人間は誰でも平等であると考える平等思想は残酷である。 身分社会では、劣位におかれた賤民は、税金を払わなくても良いといったふうに別扱いされた。 しかし、平等社会がくると、賤民であっても税金を払わなければならない。 筆者は上記のような視点で、サンカ、弾左衛門、別所など、差別の構造を解き明かしていく。 後半は書物の紹介になっているが、それでも賤民論の射程は天皇にあると認識している。 最後には「差別と天皇」という章がおかれて、天皇制が近代に誕生した差別であることを、明かしていく。 もし天皇に政治的権力があたえられているなら、当然、その政策が問われ、その主張の是非が判断されてもよかっただろう。もし天皇が宗教的権威なら、その呪術の能力が注目を浴びるだろう。もし天皇が文化的な権力であるなら、その和歌のうまいへたが論じられてしかるべきだろう。また天皇が、文字どおりに「元帥」だったのならば、その軍師としての手腕が問われて当然だったろう。古代から中世にかけての天皇は、こういったことが、臣下からも、歴史家からもちゃんと問われている。天皇の能力が考査されるのは当然だったのである。それが不問に付されるようになるのは、近代になつてである。 たぶん、不問に付し、見て見ぬふりをするよりほか、近代の天皇には対処する方法がないのである。なぜなら、近代の天皇は、政治、宗教、軍事の、どの仕事もあたえられていないからである。見かけはどうであれ、実際には、そのような明確な職業をもつものとして設定されていない。天皇は政治家でもなければ、宗教人でもないし、軍人でもない。 維新の元勲たちはそのことがよくわかっていた。P232 蛇足ながら、立って小便をしていた女性たちを、近代になって誰がしゃがませたかは、女性差別の問題として考えるべきだ、という筆者の指摘は当然である。 いまでは、しゃがんで小便することを、女性自身が内面化している。 女性もたって小便をせよいえば、それこそ女性差別といわれるだろう。 (2009.2.5)
参考: 高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006 デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995 ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997 編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995 ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、 杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980 矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004 浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005 本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005 広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997 高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002 服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005 塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972 ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
|