編著者の略歴− 1968年8月19日(バイクの日)生まれ。京都市東山区生まれ。逗子市池子育ち。横浜共立学園中学・高校、同志社大学神学部、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程前期課程修了。現在、信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会(ECQA)代表、花園大学非常勤講師、日本基督教団牧師。専門分野は、社会学、レズビアン・スタディーズ。愛車は、スズキGrass Tracker Big Boy(二輪)、スズキJimny(四輪)。 何を言いたいのだがよく判らない本である。 おそらく本人もレズビアンであることが、どんなことだか良く判っていないのだろう。 レズビアンとゲイとは違うという。 男性支配社会で、レズビアンは女性であるという理由で差別され、同性愛者という理由で二重に差別されるという。 筆者から聞こえてくるのは、レズビアンであるがゆえに、社会にどんな貢献ができるかではない。 被害者としての声である。 異性愛主義が蔓延している中で、自分は女性という同性を性的に指向しているので、差別されているという。 いくつか差別されている事実をあげているが、いずれも些細なことのように感じる。
レズビアンであるがゆえに、筆者は仕事の可能性を絶たれたという。 カソリックほどではないだろうが、プロテスタントも保守的な宗教である。 新約聖書を中心にしていながら、いまだに1対の男女でのセックスだけを認めているに過ぎない。 日本人にとってのキリスト教は、多いに問題があるはずである。 なぜ筆者が、プロテスタントに拘るのかが、本書からではまったく判らない。 <ジェンダーを越境すること>として、性同一性障害についての内田樹の発言を引用しているが、内田の発言を誤解しているようだ。 レスビアンであることに悩み、自殺を考えた人もいるから、性指向は重大事なのだという。 異性指向であっても性指向は大切である。 望みの異性と結ばれないことを悲観して、心中した男女は歴史の中には膨大にいる。 けっして同性愛者だけが性に悩んだのではない。 「同性愛者である」ことは、わたしが「誰とパートナーシップを築くか」、「どんな関係を築いていくか」という意味合いで受け取られる限りにおいては、第三者に直接的な「害」は及ぼさないと判断されうる。つまり、個人的なパートナーシップの問題として語れば、直接的な利害関係のない範囲では、「同性愛者である」ことは許容される。しかし、差別に公的に抗うことは、”わたし”と”あなた”を取り巻いている異性愛主義という〈規範)に異議申し立てをすることである。であれば、必然的に誰もが〈自己切開)を伴うはずのものである。それまで「自明のもの」とされてきたことが覆されようとするのだから。いや、少なくとも、それを問おうとするのだから。であるから、「課題」として列挙されているうちは許容されつつも、実際に差別に抗おうとする行動に参与すると「反発」を導き出してしまうわけだ。P55
レズビアンであっても学校教育は受けられるし、選挙で投票も立候補もできる。 信仰の自由もあるし、職業選択の自由もある。 もちろん銀行融資やアパートへの入居を拒否されたこともないだろう。 性指向だけではなく、多数者がつくった社会に、新たな価値観を持ちこんで、認めさせるのは至難のことである。 若者が起業するのだって、差別的な対応に出会う。 むしろ、筆者は牧師になっているし、大学講師にもなっている。 随分と恵まれた人生だと思う。 レズビアンでなくても、こんな人生を歩ける人は少ない。 筆者は結婚に関して次のように言っている。 わたしはあえて、「婚姻」の〈解体)という選択肢を支持したいと思う。現実的には、「理想論」にしか聞こえないかも知れない。しかし、とりわけ、天皇制というシステムを持つ日本で、戸籍制度を問いながら、様々な「平等」を求めていくのであれば、(解体)しかないように思えるのだ。P133 結婚制度の解体が、何を意味するかイマイチ判らない。 もし、法律的な制度としての終生の一夫一婦な核家族の解体であれば、すでに韓国では2008年になされている。 韓国ではすでに個人籍になっており、夫婦単位ではない。 もちろん結婚という風習はあるが、必ずしも我が国の結婚制度と同じではない。 何よりも不可解なのは、男女の結婚式で牧師として行動しているのだ。 結婚式で牧師がすることといったら、神にかけて男女を結びつけることのはずである。 結婚の解体をいう筆者が、牧師として結婚式を行うことは矛盾している。 筆者は職業として牧師を選んだらしいが、自己の信念を貫徹させ得る職業は他にあるだろう。 牧師を単に生活のために選んだとは思えないから、生き方に反する職業を続けることは背信的な行動である。 筆者はレズビアンだと言いながら、性的な世界はプライバシーだと言って、自己の性的な世界を語らない。 愛する者のあいだで、セックスのない人間関係など考えられないではないか。 レズビアンが如何に素晴らしいか。 パートナーとの間には充実したセックスがあると言うことこそ、レズビアンへと共感を呼ぶ道である。 目眩く性の世界を語らないのは、筆者にキリスト教徒特有のセックス・コンプレックスがあるためだろうか。 筆者に限らず、K・ヴィンセント、風間孝、河口和也、尾辻かな子、それに伏見憲明などなど、同性愛者であることを公言する人が増えた。 彼(女)たちが多くの本を書いている。 それらに共通に感じられるのは、差別されていると訴えるだけで、誰も同性愛の素晴らしさを描かないのだ。 これは奇妙なことだ。 (2011.6.8)
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999 デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005 氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995 岩田準一「本朝男色考」原書房、2002 海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005 キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也「ゲイ・スタディーズ」青土社、1997 ギィー・オッカンガム「ホモ・セクシャルな欲望」学陽書房、1993 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「男同士の絆」名古屋大学出版会、2001 スティーヴン・オーゲル「性を装う」名古屋大学出版会、1999 ヘンリー・メイコウ「「フェミニズム」と「同性愛」が人類を破壊する」成甲書房、2010 ジョン・ボズウェル「キリスト教と同性愛」国文社、1990 堀江有里「「レズビアン」という生き方」新教出版社、2006
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