著者の略歴−理化学研究所BSI−トヨタ連携センター長。1970年東京大学大学院工学系博士課程修了、工学博士。大阪大学基礎工学部助手、工学部教授、東京大学大学院工学系研究科、同大学院新領域創成科学研究科教授などを経て、2001年より理化学研究所生物制御システム研究室チームリーグ。『制御工学の考え方』等著書、論文多数。横断型基幹科学技術研究躇体連合会長。 本サイトは、工業社会から情報社会へと転じており、それが家族の形へまで影響を与えている、と述べる。 それはハードからソフトへの転換であり、物から事への転換である。 必然的に、ものつくりに拘る我が国のマスコミをはじめ、多くの動きには否定的だった。
自ら匠事務所と名のりながら、技術が属人化することを恐れ、技術の標準化を訴えてきた。 それが大工道具など理屈を知れば、誰でも使えるという発言であり、技術や知の教科書の作成に、意を用いてきたことである。 必要なのはシステムの構築であり、属人的なものつくりに拘る限り、今後の発展はないとも考えてきた。 本サイトの主張と、まったく同じことを書いた本が出版された。 科学と技術にかんする記述はともかく、科学革命を第1から第3段階あるとことに拘るのは、ややスパンが短い感じがするが、論理への信仰など、肯首できる発言が多い。 情報という言葉が科学技術の文脈で使われるようになったのは第2次世界大戦後であるが、統計学ではすでに1930年代に「統計的決定理論」が確立されており、観測データが含む価値が情報量として議論されている。情報はデジタル計算機との関連で議論されることが多いが、情報が技術の対象となり始めたのはデジタル計算機が登場するよりずっと前であることは、もっと知られてよい重要な事実である。情報は計算機ではなく大量生産と大量消費の申し子である。そして大量生産と大量消費こそが、情報化社会の生みの親である。P67 これは言いかえれば、工業社会が情報社会を生んだ、と言っているのに等しい。 まったく当たり前のことである。 そして、論理をおう合理的な発想が、アジアには欠けており、それが近代を生み出せなかった原因だという。 日本の技術は、熟練や経験などの個人的な技能に技術を収赦させる傾向が強く、精進と修練によって得られた「匠の技」を重く見る。半面、数式や定型化された手順など普遍的な枠組で技術を表現することが苦手である。いわゆる「暗黙知」に頼る傾向が強い。これは明らかに労働集約型の特徴である。労働集約型の技術がこのような技術の風土を生み、そしてそのような技術風土がさらに労働集約型の技術に磨きをかけた。この精神的な土壌が西欧で生まれた近代技術と切り結んだとき、ものに対する汎神論的な見方を生み出す。P100 まったく同意する。 労働集約的の反対概念は、資本集約的だが、労働力がたくさんあるところでは労働集約的になる。 人間たくさんいれば、個人の価値は低くて、人間よりも物の価値が高くなる。 「もったいない」などいう発想は、まさに人間よりも、物を大切にする思想である。
狭い国土に、多くの労働者がいたから、人手は溢れていたのだ。 明治になっても、政府は教育に力をそそぎ、戦前には8千万人近い人口になった。 そして、戦後は1億をこえた。 労働集約的になったのは当然である。 職人技や匠の技など、属人的な技術を賛美する声は多い。 ものつくり大学すらある。 しかし、こうした個人が修練によって技術をたかめる姿勢は、できあがった物への信仰につながる。 製作にあたって心血を注いだから、大切に思えるのは当然だろう。 機械でも同じ物が作れるにもかかわらず、人間の心意気が問題になってしまう。 心を込めた精神性より、完成度の高さが求められるにもかかわらず、心意気を大切にしてしまう。 労働集約的な発想では、見える物つくりには良いだろうが、見えない事つくりにはむかない。 そして、大規模な組織でしかできないプロジェクトになると、システム的な発想の欠如から、対応できず、馬脚をあらわしてしまう。 対応が可能なのは、優れた個人的なリーダーが対応できる規模までである。 PERTもコンフィギュレーション管理も、普遍的で明示的な方法に基づいて個別の技術を統合しょうとする考え方である。一方、学問的、技術的に優れた指導者はいそれぞれの技術を身につけている人間に統合の基盤を求める。技術を担うのはあくまで生身の人間であると考える。そうなると技術の統合は、人間のチームワークを通して実現する。 これに対しシステム工学によるプロジェクトマネジメントは、逆に技術から人間的な要素を取り去り、ドキュメンテーションとその処理の徹底した定量化と明示性に技術を統合するための契機と可能性を見出す。P166 先進国の企業では、だれでも交換可能な組織をつくりあげた。 これは冷たいように聞こえるが、まったく反対である。 労働を標準化したので、誰でも企業間の移動が可能になり、退職しても復職が可能になったのだ。 職種が属人的な要素に縛られると、一度就職するとその企業に一生勤めざるをえず、中途採用が成り立たない。 これでは女性の雇用は進むはずがないし、労働者は一つの企業に縛れられたままである。 今我が国でも、ワークシェアーと言われる。 しかし、労働の標準化が進んでいないところで、ワークシェアーすると1人に過重な仕事量がおそい、他の人には仕事がないと言うことになる。 工業社会とは標準化であり、どんな部品を任意にとりだしても、交換可能でなければならなかった。 標準仕様である。 製造対象が標準化されれば、それをつくる人間も標準化されて当然だった。 標準化とは物から一度はなれて、客観視することである。 個人的な技術の研鑽を賛美する姿勢は、狭い部分の個別的な改良は、得意かも知れないが、全体を貫徹するような理論構築には不向きである。 「理論」「システム」「ソフトウェア」が、我が国の不得手な分野だという。 しかし、この3つこそ、今後の物つくりには不可欠である。 物をつくるにも、事からアプローチしなければ、不可能な状態になっている。 筆者は、高度成長経済までの我が国を賛美しながらも、今後の発展には大きな危惧をしめてしている。 筆者の危惧を、当サイトも同じようにもっている。 (2009.4.8)
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