著者の略歴−1962年東京生まれ.1987年東京大学農学部卒業.1998年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻大学院博士課程修了.現在,慶応大学総合政策学部教員. 著者:『〈日本人〉の境界』(新曜社,1998年)『インド日記』(新曜社,2000年)『ナショナリティの脱構築』(共著,楷書房,1996年)『知のモラル』(共著,東京大学出版会,1996年)『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』(共著,棺審房,1999年)『異文化理解の倫理にむけて』(共著,名古屋大学出版会,2000年) 日本人は単一民族である、という俗説を解明するために、500ページを費やした力作である。 本書は1994年に修士論文として書かれたものだという。 近代をほぼ通覧するパワーには脱帽である。 あとがきでも書いているが、これからわが国は多民族国家にならなければいけないので、 戦前は単一民族神話が支配的だったろう、と思って研究を始めたのだそうだ。 それが予想とは違って、
という結果になったという。 この過程を丁寧に追っており、よく勉強されました、という感じである。 本書に好感を持つのは、登場する人物たちが、善意で大陸侵略や人種差別・天皇崇拝を公言していたという視点である。 こんなに封建的だとか、非合理的だといって、あたかも悪意で論を張っていたかのごとくに、後世の人間が批判することが多い。 今から見れば、間違いだと思えることであっても、当時は真剣に世のため人のために考えていたのであって、 決して社会が悪くなれという悪意で論を展開したのではない。 その視点が一貫しているのは、読んでいて気持ちがいい。 悪意に生きるほど日本人は強固な意志をもっておらず、 地獄への道は、善意によって敷きつめられているのが、わが国における近代の歴史なのである。 また筆者は、柳田国男や高群逸枝などのように、 時代が彼(女)等の思想を、本人の意図をはなれて読んでしまうのもよく判っているようだ。 思想がそれ語る人の思惑と、反対の結果を生みだしたりする構造もよく判っている。 アイヌが日本軍兵士として参戦し、差別を超えて叙勲されたことは驚く。 単にお題目だけではなく、支配の構造に組み込まれることによって、 差別の解消がすすむ事例なのだろうか。 何と皮肉なことだろうか。 同じ構図は、朝鮮人が日本軍の将校になることでも起きる。 将校であるから、日本兵は敬意を表さなければならないが、 被差別の朝鮮人であることのジレンマがある。 こうした構造は、差別があるところではどこでもあるのだろう。 本書の白眉は、領土が拡大する途中での、日本人性を確保する動きの分析である。 朝鮮人や台湾人といった外国人を含みながらの、 単一民族論と混合民族論が家族論を媒介にしながら、どのように侵略に収斂していったか、の記述はとても興味深く読んだ。 しかも、太平洋戦争も末期になると、 単一民族論と混合民族論ともに論理的な展開が止まってしまったことなど、肯ける記述である。
拡大した部分に、本国との一体性などあるわけはないが、 人的な資源という意味では侵略国民をも使わざるを得ない。 侵略と同一性の確保は、二律背反で最初から無理な話である。 侵略を賛美し、同化政策を進め、徴兵や動員を行なうには同祖論や混合民族論が便利である。だが、それでは混血が止められない。混血防止のため混合民族論を否定すれば、日本の侵略がアジアの血の連帯や情の結合などではなく、たんなる権力支配でしかないことをみずから白状することになる。それ以前のように、混合民族論が抽象的な議論にとどまっていた時点ではともかく、具体的に混血などが目前の課題になると、この矛盾はぬきさしならないものになっていたのである。P331 露骨な差別や権力支配を批判した論者はけっして少なくなかったが、その多くは混合民族論によって、同化政策を推進することが差別の解消であり、人種主義をとる欧米にくらべ日本は倫理的にまさっているという論調に流れてしまった。日本の同化論は、単純な人種主義ではなく、むしろ人種主義をのりこえたと思いこんでいる。だからこそ、戦後にそれを差別として批判されても、十分に自覚することができない。混合民族論は、血統意識から分離した国籍や人権の槻念を成立させない点において、戦後の単一民族論と機能的に同じである。はじめから差異を認めていない相手との関係に、血統から分離した権利の概念が発生するわけがない。逆に言えば、そうした人権概念を生れさせない仕掛けが、混合民族論なのである。P373 上記の論は、今日にも残っている。 わが国は西欧より優れているとか、アジアの領主とか、何の根拠もない優越感がある。 貿易摩擦といった経済的な問題で、海外と利害が対立するときにも、 精神的な優越感や劣等感が登場する。 本書が分析に家族を絡めてくるのは、最後になってであるが、 家族を入れるのは別の視点であると思う。 家族にかんしては、リアルであるだけにもう少し慎重になったほうが良いように思う。 しかし、家族を疑似血縁ととらえるのは今でも続いており、 利益集団である会社すら家族になぞらえる始末である。 社長が父親で専務が母親といわれると、支配構造が従業員に心理的な抵抗なく入っていくようだ。 これはわが国独自の問題というより、前近代的な心性かも知れない。 単一民族論・混合民族論と、家族論は少し次元が違うように思う。 筆者は思想史専攻なので、思想の力にも重きをいているが、 むしろ本書の読後感は、思想は時代の要請に応える、といったものだ。 原稿依頼や出版も、テレビ出演も、時代が要請しているのであり、 時代と没交渉になった時点で、思想自体が無視され始めるのではないか。 思想それ自体の普遍的な価値によってではなく、 バブルの時代にはイケイケどんどんの人が、バブルがはじけると清貧の思想が求められたように、 時代が要請している人物が、招かれているに過ぎないように思う。 そう考えて、網野善彦氏の登場は、何を物語るのだろうか、と気になった。
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