著者の略歴− 1943年生まれ。早稲田大学理工学部応用化学科卒業後、東京工業大学大学院原子核工学科で修士号を、マサチユーセッツ工科大学大学院原子工学科で博士号を得る。1970年から2年間、日立製作所原子力開発部技師として、主に高速増殖炉設計に従事。1979年から94年まで、マツキンゼー社の日本支社長、会長などを歴任。著書に「大前研一の新・国富論」「世界が見える日本が見える」「平成維新PART II」訳書に「エクセレント・カンパニー」などがある。 本書は、企業や公共企業体のすすむべき方向を探るための、方法を模索したものである。 本書はビジネス書であり、ビジネスマンを読者としているのだろう。 その性格上、大上段にかまえた一般論ではない。 ハウツウといった側面ももつが、問題解決の方法といった意味では、本書の有効性はビジネス分野に限らない。
問題解決の方法を、筆者は戦略的思考と名付け、それを筆者なりに構築している。 1985年に文庫化された本書だが、少しも古びていない。 この手の本としては、とても珍しいことである。 戦略的思考の第一段階が、ものの本質を考えるということにある、と述べた。だれでも物事の本質をつきつめようと考えているに違いないので、出てきた結果が核心をついているか否かは、運、不運ではないかと思われる方があるかもしれない。私は、運、不運ではなく、問題に取り組むときの姿勢と方法に大いに関係があると思う。スタート時点で大切なことは次の一点であろう。 「設問のしかたを解決策志向的に行うこと」P20 いわれてみれば当たり前であるが、漠然とした問題設定をしがちである。 漠然として問題設定だから、解答も一生懸命に働くといった、漠然としたものにしかならない。 当初の問題の設定で、すべてが決まってしまうと言っても過言ではない。 問題を正確にたてられれば、解決したも同然である。 多くは問題の所在や問題設定を間違えるから、どこまで行っても解答は見つからない。 おそらく問題設定が最も難しいのだ。 次に、問題は正しく設定できたとすると、はじめて解決のための方法論が必要になってくる。 それを筆者は2つあげる。 1. イッシュー・ツリー 2. プロフィット・ツリー
1985年当時には、まだコンピューターが現在のようには普及していなかった。 しかし、1960年代の後半に、マサチューセッツ工科大学の大学院に学んでいる筆者には、フローチャートはすでに馴染みのものだったろう。 筆者は、問題解決の方法論を、コンピューターの論理に求めているのである。 これは近代にはいるときに、天啓といったインスピレーション的な演繹発想から、数字を使った帰納的な発想へと転換したと、まったく同じである。 近代が終わって情報社会に入れば、コンピューターの回路であるデジタルな思考が主流になる。 コンピューターのプログラミングが身近なものになれば、コンピューター的な思考になるだろう、と本書のほかでも言っているが、コンピューターの普及は思考方法を大きく転換させるだろう。 コンピューターが思考に与える影響を論じてはいないが、筆者にはそれが無条件的な前提になっている。 この姿勢は、この当時にあっては、いや今でも希有である。 現在はコンピューターを道具とみなす人が多いが、今後はデジタルな発想という意味で、コンピューターが思考を支えるものとなり、コンピューター的な思考になるだろう。 細かく分析する視点が、わが国で発達しなかった理由を次のように言う。 成長経済下では、こうした大ぼらもウソにならずにすんでいたきらいがある。人的資源も、学卒の丸がかえ採用およぴホワイトカラーをブルーカラー化することによって調達できたし、技術ノウハウなどは、制限条件になるどころか無尽蔵に外国から買うことができた。 本来の日本らしさ、すなわち事業のつり合いなどを考えていたら、競合他社に蹴落とされてしまう、というパニック状態の疾走がここ数十年つづいたし、かつ、そのエネルギーが供給されつづけえた、ということなのではなかろうか? P98 一足先に成熟社会を迎え、低成長に入ったアメリカでは、あらたな成長が望まれていた。 成熟社会だから低成長でも仕方ないが、それでも経済は成長しないわけにはいかない。 成長をとめたとたんに、デフレということになり、わが国が苦しんでいることは、いまや周知である。 低成長のアメリカ企業が模索した問題解決の方法を、本書はわが国の事例を使って判りやすく述べる。 戦略的思考とはなにかを第1章で述べたあと、その応用例がつぎつぎと展開されていく。 第4章と第5章は、やや大風呂敷的な論になってしまっている。 が、それでもこの本が書かれた時代を考えると、思わず襟を正したくなるような卓見である。 ただ、筆者が反対するアファーマティヴ・アクションに関しては、アファーマティヴ・アクションが制定されたにもかかわらず、アメリカの独創を尊ぶ風土は変わらない。 今やアメリカの一人勝ちであることを付け加えておく。 16年間で、29版を重ねているところを見ると、現在でもよく読まれているのだろう。 (2003.11.07)
参考: アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 戸部良一ほか「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社、1984 ジル・A・フレーザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003 菊澤研宗「組織の不条理−なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか」ダイヤモンド社、2000 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975 E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975 E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988 イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001 ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997 橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984 石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007 梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000 小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001 前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985 成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000 デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007 北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006 小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000 松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001 斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978 ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988 吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983 古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000 ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003 三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005 ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005 フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974 ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990 ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000 C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007 オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006 エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992
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