匠雅音の家族についてのブックレビュー    庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし|成松 佐恵子

庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし お奨度:

著者:成松 佐恵子(なりまつ さえこ) ミネルヴァ書房、2000年  ¥3、500−

著者の略歴− 1939年東京都生まれ。1962年東京女子大学文理学部史学科卒業。1977〜91年慶應義塾大学速水融研究室に勤務,古文書の整理・解読担当。1992〜94年江東区古文書講習会講師。1992年〜現在NHK学園講師。研究分野日本近世史。主著・論文「近世東北農村の人びと」ミネルヴァ書房,1985、「近世後期の日記にみる庄屋家族の生活」(『徳川社会からの展望』所収)同文舘,1989、「江戸時代の東北農村」同文舘,1992
 本書は、美濃国安八郡西条村(岐阜県安八郡輪之内町)の庄屋であった西松権兵衛の日記を、丹念に読み解いたものである。
権兵衛という名前は、西松家の当主が代々に受け継いだ名前であったらしく、何人もの人が名乗っている。
主として本書が扱う時代は、江戸も末期の生活事情である。
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 古文書が解読されるようになったのは、とても良いことである。
それによって実際に庶民がどんな生活をしていたかが、相当程度に判るようになってきた。
武士が威張っており、庶民は小さくなってしか生きることができないとか、
男性支配の社会で女性は小さくなって生きていた、といったイデオロギー優先の見方は現実を歪めてしまう。
 
 江戸時代とは大枠として言えば、武士の支配する社会である。
男性優位だとしても、そこに生きる人間たちは喜怒哀楽をもった生身の人間である。
武力や腕力だけで、支配はできない。
支配されるほうも、支配を認めていたから、支配は成り立つ。
そう考えるからと言って、武士の支配や男性支配を良いものと認めるわけではない。
が、生きる人間に共感を持つがゆえに、彼らの息吹を感じたいのである。

 本書の視点は、支配の最末端として、武士と庶民の中間にたつ庄屋の役割と、庄屋自身の生活の素描という2つの面をもっている。
前半が行政の末端者としての記述が多く、後半は生活の分析になっている。
本書によると、庄屋の仕事は激務だったようだ。
役人たちの接待など、根回しをしながら、細かい心使いをしている。
今なら賄賂といわれる役人への心付けも、当時としては人間関係の潤滑油だったらしく、たびたび支払っている。

 村にとって支配体制が変化することは、新たな検地その他に手間や費用がかさむことを意味し、すべて村側の負担の増大につながることが懸念された。美濃に近いところでは、信州中野地方や飛騨国の一揆などの例があるが、幕府領で起るこうした騒動の多くが検地の実施をめぐって発生していることでも明らかなように、再検地への村々の抵抗は強く、とくに度々の水難で疲弊している地域としては認められないことであった。P71

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 村としての意向をまとめ、役人と交渉するのも、庄屋の仕事である。
そこには現在につうじる交渉術がかいま見える。
途上国では現在でも賄賂が横行するように、前近代では、賄賂は悪いことではなかった。
本書でも、役人に心付けを渡しても、音便にことを納めようとする庄屋たちの苦労が忍ばれる。
 
 不品行・不行跡に対する役所と村の対応には、かなりの相違がうかがえる。中間にたつ庄屋は、大きな悪事を為出かさない限り常に百姓を庇い、身請けを願い出る傾向があり、それを取りつける手段の一つが、役人への礼を意味する金品であった。それらを利用して、村に有利に事を進めるのも庄屋の腕の見せどころであったといえよう。庄屋職が簡単に勤まるものでないのは、こうした際にものをいう経験と力量を兼ね備えることが強く求められ、村びとの全幅の信頼に応えることが望まれていたためであった。P92

 庄屋の生活を記述した部分は、意外な豊かさを感じる。
江戸時代も後期になると、商品経済がひろまっており、生活は変化していたらしい。
が、百姓は木綿と麻しか着ていないわけではない。
もちろん、京都に近い岐阜ということもあるし、庄屋という裕福な階層だからかもしれないが、農民窮乏説から離れて、現実の生活を見直してみたほうがいいようだ。
江戸時代は、女性が虐げられていたといわれるが、本書で見る限り、必ずしも女性が酷使されていたようではない。

 しよう(権兵衛の妻)の生き方をみる限り、従順な妻というイメージはなく、まして『女大学』でいうところの、嫁しては夫に仕え、家に尽すといった姿はほとんど感じられず、かなり自由を楽しんでいる感さえある。夫が息子たちの病弱な身体を心配し、医者を訪ね、占いに頼り、心を痛めている一方で、妻は実家の姉妹と旅の空ということもあった。芝居見物も彼女の楽しみの一つであったらしい。権兵衛が、大垣での公務が長びいて夜中に帰宅した折も、出迎えるものもなく、家中寝静まっていたと書かれたこともある。(中略)しようが悪妻だったという感じがないのはどうしてであろうか。例えば、法事や俳譜の寄合、観音講など人が大勢集まる際の食事の準備にすら彼女は一切登場せず、すべて男性で片付けられている。こうした習慣は、西松家のような大きな家ではむしろ当然のことであり、戦後でも、使用人を多くかかえる家が珍しくなかった間は、そうした家での主婦の役割は現在の常識とは少し異なっていたようである。P236

 農業が主な産業だった社会では、女性の地位は決して低くはなかった。
労働力として、女性も貴重な存在だった。また死亡率が高かったので、子供を産む女性は大切だった。
女性の地位が下がったのは、専業主婦の登場した近代になってからだった。
それにしても本書を読んでいると、人が簡単に死んでいくことに驚かされる。
生まれた子供は、半分くらい死んでしまうのだ。
いつも村のどこかで葬式ある。     (2002.9.20)
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参考:
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか」ハヤカワ文庫、1997
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
氏家幹人「大江戸残酷物語」洋泉社、2002
福田和彦「閨の睦言」現代書林、183
田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999年
佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
今一生「ゲストハウスに住もう!」晶文社、2004年
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」鹿島出版会、1985
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神」河出書房新社、2001
マイケル・ルイス「ネクスト」アウペクト、2002


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