著者の略歴−1933年インド・ベンガル地方に生まれる.1959年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで経済学博士号取得.ケンブリッジ,デリー,LSE,オックスフォード,ハーバード各大学教援を経て,1998年よりケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学寮長をつとめる.1998年ノーベル経済学貰を受賞.主な邦訳書に,『不平等の経済理論』(杉山武彦訳,日本経済新聞社,1977年),『福祉の経済学』(鈴村興太郎訳,岩波書店,1988年),『合理的な愚か者』(大庭健・川本隆史訳,勁草書房,1989年),『不平等の再検討』(池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳,岩波書店,1999年)がある. 工業社会までが男性支配の社会だった理由は、屈強な腕力が生産に不可欠だった。 男性にとっても女性にとっても、種族保存より個体維持が優先するがゆえに、 屈強な腕力に秀でた男性を優位者とした。 屈強な腕力に優れた者を優位者としないと、女性も生活できなかったのだ、 と私は「性差を越えて」で書いた。 その時、頭の片隅から離れなかったのが、飢饉であった。
人間の歴史は、数十万年を遡ることができる。 最も長いのは、狩猟採集時代である。 この時代、人間は飢えることがあったろうか。 多分あっただろうが、元来が自然からの恵みで生活している時代には、飢饉という概念はうまれない。 飢饉とは、人間が自然に働きかけるようになってうまれたもので、 働きの見返りが極端に少ないことをいうのだ。 だから、飢饉とは農耕社会に特有の現象である。 工業社会に貧困はあっても、飢饉はない。 飢餓(starvation)とは、十分な食べ物を持っていない人々を特徴づける言葉である。 十分な食べ物がそこにないという状況を特徴づける言葉ではない。後者は前者の原 因の一つとなり得るが、多くの可能性の中の一つの原因にすぎない。飢餓が本当に 食料供給と関連しているのか、どのように関連しているのかは、現実から検証すべき ことである。P1 と始まる本書は、20世紀に世界各地で発生した飢饉を検証しながら、その原因を実証的に探っていく。 そして、食糧不足という通説を否定する。 筆者は、権原(entitlement)という概念を使って説明するが、きわめて説得的である。 食べ物がない。 わが国の歴史の上でも何度も経験されてきた。 天明の飢饉など有名で、人肉食まで行われた記録がある。 干魃などの天災が飢饉の原因だとしても、 天候不順がどの地方にも平等におとずれながら、飢餓の発生は同じではない。
歴史を見ていくと、食物がないことの悲惨さに目がいってしまう。 あまりの悲惨さは、飢饉発生の原因を考えさせない。 しかし、インド人である筆者は地元を離れて、客観視できるようになったたせいだろうか、 実証分析から飢餓発生のメカニズムを解明していく。 多くの飢饉において、飢饉が猛威を振るっているさなかに、飢饉に見舞われた国や地域から食料が輸出されつつある、との苦情が聞かれた。(中略)「イギリスとアイルランドの長く、騒然とした歴史の中で、アイルランドの人々が餓死しっつある時期を通じて、アイルランドからイギリスヘ膨大な量の食料が輸出されていたという否定しようのない事実ほど、怒りと両国問の関係悪化を引き起こしたものはなかった」飢饉に見舞われた地域から食料が出ていく動きは、インドの飢饉でも観察されている。P232 そこで飢饉を防ぐ方法は、民主化だという。 表現の自由や社会保障の普及が飢饉を防ぐという。 訳者の解説には次のような文章がある。 センは、飢餓や飢饉に対して最も脆弱なのが、市場経済が浸透して伝統的保険メカニズムが消えつつあるにもかかわらず、それに代わる社会保障制度が整っていない途上国であると論じている。P286 近代社会に住む人たちは、長閑で平和な農耕社会を夢みるが、 伝統的社会こそ食糧に関して厳しかったのだ。 途上国の人たちが、なぜ工業化を急ぐのかが良く理解できる。 先進国の人たちが、伝統的な世界に市場経済を持ち込みながら、 農耕社会に憧れるのは悪い冗談だとしか思えない。
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