著者の略歴− 裕福になった現在のわが国では、もはや貧乏という言葉が死滅したとさえ言える。 しかし、たった数十年前までは、わが国も近代化の波に襲われて、貧しい生活をせざるを得ない人たちがたくさんいた。 今、アジアを歩くと至るところでスラムを目にするが、それはつい最近までのわが国の姿でもあった。 それを忘れてしまうと、本当の歴史はたちまちにして見えなくなってしまう。 本書は、明治中頃の東京下層民の生活実態を、克明に記録したルポルタージュである。
擬古文というのだろうか、今日の文体からすればやや読みにくいが、決して読めないわけではない。 充分に意味はとれる。本文の中に筆書きのカットも交えたもので、筆者の体当たり的な体験から、日清戦争以前の下層社会を描いている。 この時代にはまだ産業革命が到来していない。 江戸から引き継いだ生活だが、当時の貧民窟を生き生きと描写している。 車夫になるには大した技術も不要で、誰にでも簡単にできる。 今のアジアでも最も貧しい職業である。 当時のわが国も同じだったらしい。車夫こそ女工と並んで明治の低賃金労働だった。 ただし、女工が登場するのは日清戦争後である。 今私たちは豊かな社会に生きているが、豊かだからといって貧しいアジア諸国とは何の違いもない。 わが国もちょっと前までは、同じように貧乏に苦しんだのだ。 そして貧乏であっても、そこには人間の生活があり、笑いや怒り、泣きそして楽しみがあったのだ。 どんな社会になろうとも、人間の精神生活はそんなに変わるものではないことは、アジアを歩いているとよく判る。 貧しいことは、不衛生であることと同義であるし、短命であることでもある。 しかし、いかに不衛生であろうとも、そこで人間が生活しているのだ。 特別の風土病やそれへの免疫を除けば、人間の体に違いがあるはずはない。 現地の人たちがやっている生活のまねをすれば、その地でも充分に生きていける。 私のアジア旅行は、現地の人たちが食べているものを食べ、飲んでいるものを飲むことを基本としている。 さすがに寝る場所まで同じということはできないが、極力その場所の生活に近いところにいようと務めている。 それが異文化体験であり、自分の文化を豊かにしてくれる方法だと考えている。 豊かな社会に生きることによって目がくすみ、他の人たちと心が通わなくなってしまうことが恐い。 自分を知るために、私はアジアを歩く。 「女工哀史」が有名になった。 女性だけが近代化の犠牲になったように思われるが、決してそんなことはない。 近代化へのうねりは、男女を問わず貧困に陥れたのだ。 本書を読むと、わが国がいかにアジアの一員かということを知らせてくれる。 わが国の先達たちも今のアジアの人々と同じ生活をしていたことが判る。 わが国がアジア諸国になした侵略にとどまらず、 明治・大正と貧しかったわが国自身の日々を、決して忘れるべきではない。 歴史を忘れるものは、明日を語ることはできないのだ。
参考: 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988) A・B・ミットフォード「英国外交官の見た幕末維新」講談社学術文庫、1998(1985) 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 松原岩五郎「最暗黒の東京」現代思潮新社、1980 イザベラ・バ−ド「日本奥地紀行」平凡社、2000 リチャード・ゴードン・スミス「ニッポン仰天日記」小学館、1993 ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986 アリス・ベーコン「明治日本の女たち」みすず書房、2003 渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005 湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005 雨宮処凛「生きさせろ」太田出版、2007 菊池勇夫「飢饉 飢えと食の日本史」集英社新書、2000 アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000 紀田順一郎「東京の下層社会:明治から終戦まで」新潮社、1990 小林丈広「近代日本と公衆衛生 都市社会史の試み」雄山閣出版、2001 松原岩五郎「最暗黒の東京」岩波文庫、1988 ポール・ウォーレス「人口ピラミッドがひっくり返るとき高齢化社会の経済新ルール」草思社、2001 鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫、2000 塩見鮮一郎「異形にされた人たち」河出文庫、2009(1997) 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995 杉田俊介氏「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 横山源之助「下層社会探訪集」文元社 大山史朗「山谷崖っぷち日記」TBSブリタニカ、2000 三浦展「下流社会」光文社新書、2005 高橋祥友「自殺の心理学」講談社現代新書、1997 長嶋千聡「ダンボールハウス」英知出版、2006 石井光太「絶対貧困」光文社、2009 杉田俊介「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005 雨宮処凛ほか「フリーター論争2.0」人文書院、2008 金子雅臣「ホームレスになった」ちくま文庫、2001 沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」文芸春秋、2001 上原善広「被差別の食卓」新潮新書、2005 クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994 槌田敦「環境保護運動はどこが間違っているのか?」宝島社文庫、1999 松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
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