匠雅音の家族についてのブックレビュー    中世都市と暴力|ニコル・ゴンティエ

中世都市と暴力 お奨度:

著者:ニコル・ゴンティエ、白水社   1999年   ¥2600−

著者の略歴−1950年リヨン生まれ。1972年に歴史学の教授資格を取得して、中学や高校で教鞭を執った後、ブルゴーニュ大学教授などを経て、1992年にリヨン第三大学文学部教授に就任し、現在に至っている。

 13世紀から16世紀の都市における暴力を記述したものである。
本書によれば、都市は農村とは決定的に異なったものであり、
農村部から放出された人間が狭い面積に住んだため、ひどく緊張が高まった。
封建領主と対立した都市の市民は、自由を獲得していったが、
都市に特有の怒りと暴力を発散させることにもなった。
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 都市と農村は違った目で見る必要はある。
都市と農村を律する道徳は違う。
農村はなによりも、土地に結びついて生活が成り立っている。
それにたいして、都市は必ずしも土地とは結びつきがない。
だから、よそ者をも受け入れ得た。
そして、不安定な人間関係が、よりいっそうの緊張を生み出した。

 あらゆる社会の基本単位は家族である。中世末期には、父系・母系双方の傍系や子孫をすべて結び付けた「ゲルマン的氏族」にかわって、夫婦を核とする家族が優勢になる傾向が見られた。これは都市の生活様式が、家族集団の縮小化を促した結果とも考えられる。都市の住居は大勢が住むには手狭だし、また先祖代々の土地に残った親族との関係も途絶えがちになるからである。だが現実には、西欧のほとんどの大都市の歴史を見ると、この分野でも驚くべき持続が見られる。貴族は十世紀以降、都市内に居住するようになると、「市壁のなか」に広い土地を所有するようになり、そこに自分たちの従者を集めた。こうして「クラン」と呼ばれる親族集団の緊密性が、都市の風景に刻み込まれていった。P48

 都市において特に暴力的な傾向をおびたのは、若者だった。
若者とは何歳を指すのか不明だが、
職業人として一人立ちしていない人間を若者と呼ぶとすれば、
14〜30歳くらいまでの人間が該当する。
近代以前においては、人間が簡単に死んだので、人口の構成は若者が中心だった。
若者は人口の半分を占めたようだ。
そんななかで、成人がなかなか家督を譲らないので、若者のフラストレーションは否が応でも高まったというわけである。

 様々な人種が混交した都市では、徴税人や警官にたいしても憎悪の目が向けられた。
徴税人は君主に補償金を支払って徴税業務を請け負ったので、その執行は厳しいものになった。
警官も低賃金を、賄賂や罰金で補おうとしたので、反感を買ったのである。
それだけではない。
貴族に決闘があったように、庶民たちには喧嘩があった。

 中世の喧嘩は、大勢の参加者を結集する乱闘ではなく、貴族の決闘の庶民版のような、「個人と個人」の闘いだった。闘う二人は互いに相手を屈服させ、自分の優位を認めるよう迫り、さもなくば直ちに報復しようとした。(中略)手当たり次第に物をつかむと、相手をどこであれ、お構いなしに殴った。計画や予謀といったことは、まったくなかった。そのため武器も多様なら、怪我の仕方もさまざまだった。P118

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 今日では、決闘や喧嘩に限らず、私人間の暴力の行使は、法律が禁止している。
やくざという暴力集団の抗争ですら、れっきとした犯罪である。
そして、親が子供に与える躾という名の暴力や、夫婦間の暴力も許されることはない。
しかし、中世には事情が違った。

 危険な暴力とそうでない暴力の区別は微妙で、我々にはしばしば理解困難である。足で蹴る喧嘩は合法的であったように思われるのに対し、棒で殴る攻撃は訴追を招いた。また慣習法によれば、妻や子供に対する父親の私的な暴力は、正当な体罰の権限と見なされた。有力者にいたっては、売春婦に侮辱されたときには、彼女に平手打ちを食らわせることも出来た。これは一般に認められており、有力者はそのために公的な平和を乱したことにはならなかったのである。P158

 筆者は、暴力を都市の問題として考えている。
しかし、本書を読んでくる限り、暴力のあり方は農耕社会と近代社会では異なっている、
そう考えた方がいいように思う。
都市に限らず中世では貴族の決闘や、敵討ちなどが許されていたわけだし、
刑罰にしても肉体に加える暴力によっていた。
つまりこの時代には、暴力が肯定されていたが、
近代に入るにしたがって、徐々に暴力は否定され始めた、と考えるのである。

 農耕社会が肉体労働に基づいている以上、肉体を基準として成り立っていた。

  東洋であれ、西洋であれ、中世の抑圧制度をめぐるあらゆる研究は、為政者によって科される罰と、為政者が想定する秩序とのあいだに、見せしめ的な一致があることを指摘している。罪人は、都市の理想的な調和を乱し、その十全さを損なったと見なされた。そのため彼は、都市を元の汚れなき状態に戻さねばならず、彼の肉体がこの秩序の可視的な媒体であるかのように、共同体は引き起こされた混乱を罪人の肉体に負担させるのである。それゆえ犯された罪と、それを罰する体刑とのあいだには、直接的、あるいは象徴的な関係が打ち立てられた。P198

 暴力の発揮に対して、肉体を根絶するように秩序が維持された。
土地から切れた工業社会では、肉体労働以外に社会を支えるものを生み出した。
それは頭脳労働であり、それゆえに工業社会では肉体以外に頭脳というものを、
人間の根底的な部分と考えるようになった。
ここで肉体に対する根底的な価値観の転倒がおきている。

 肉体を対象にした価値観から、頭脳を対象にした価値観へと、路線の変更が行われた。
この変更はゆっくりと行われたので目立たなかったが、
情報社会へはいる今、肉体=腕力対頭脳=知力という構造が明確になったので、
暴力の何であるかがはっきりしてきた。
暴力とは、肉体的な力の行使の別名であり、他人の肉体の上にふりかかる物理的な力とは、必ずしも限らない。

 刑罰に関しても、肉体を対象にした懲罰刑から、
精神=頭脳を対象にした教育刑へと、転じたことは暴力が違う扱いを受け始めたことを意味している。
暴力にかんした一般論は稿を改めるが、
農耕社会では暴力=肉体的な力の行使が肯定されていたが、情報社会では暴力は肯定の対象だとは限らない、とは概ね言えるのではないだろうか。

 農耕社会の上に工業社会がのり、その上に情報社会がのっているわけだから、
情報社会では暴力が存在しないというわけではない。
情報社会では、少なくとも腕力の多寡を人間の評価基準にはしないし、
私人間におけるいかなる暴力の行使も蔑まされている。
形態や存在意義は異なるが、情報社会にも暴力は存在する。
暴力は肉体と不可分であるがゆえに、情報社会の考察に暴力の考察が不可欠である。
(2002.7.5)
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参考:
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