著者の略歴−1929年生まれ。元パリ大学教授(社会学)。マルクスの経済理論にソシュールの記号論を大胆に導入し,現代消費社会を読み解く独自の視点を提示して広く注目を浴びた。近年では,学術的なスタイルからは徐々に離れて、より広い視野に立った文化批判へと向かっている。著書:「物の体系」「記号の経済学批判」「生産の鏡」「誘惑の戦略」「シミューラクルとシミュレーション」「宿命の戦略」「アメリカ」以上,法政大学出版局、「象徴交換と死」ちくま学芸文庫、「透きとおった悪」「湾岸戦争は起こらなかった」以上,紀伊国産書店、「世紀末の他者たち」共著,紀伊国屋書店 1970年にフランスで上梓された本書は、1979年に邦訳された。 現在でもよく読まれており、もはや古典といった感がある。 たしかに工業社会の終盤から、情報社会を予測したような記述は、いまでも読むに耐える。 生産よりも消費が主役だとは、すでに常識化した感もあるが、消費社会論は誤解もされているように感じる。
ボードリヤールは、モノが単なる物理的対象ではなくてモノ=記号として現われるという事実に着眼するわけだが、モノ=記号という定式の背後には、マルクスの価値形態論(商品論)がひかえていることはすぐに見てとれる。そしてマルクスの価値形態論とソシュールの記号論とを結合して社会現象の分析用具に仕上げたところに、ボードリヤールの創意があったであろう。だが、もっと重要なことは、マルクスが生産圏内のモノに限定したモノ=記号論を、社会の全現象に拡張することであり、ここにボードリヤールの理論的冒険がある。生産圏だけにしか眼を向けない経済学者流のモノ観を否定し、社会内の森羅万象はモノ=記号化することに、そしてそのことがボードリヤールのいう<消費>概念を構成すること、ここに彼の主張の要点がある。P318 と、訳者が解説しているように、工業社会という近代から、その先つまり脱近代を読もうとしている。 このあたりから、ポストモダンが生まれてくるのは、自然な流れである。 本書のスタンスには、物が重さを失うという情報社会の思考がみてとれる。 思考のフレームは、マルクスとソシュールだろうが、本書のなかでは具体的な引用はない。 マルクスは工業社会を解剖したのであり、知が優位する情報社会を対象にしたのではない。 だから、マルクスへの言及がないことは当然である。 本書は、ヴェブレンの「有閑階級の理論」やリースマンの「孤独な群衆」などを引用し、ダニエル・ベル「脱工業社会の到来」などを参考にしていると思わせる。 また、マクルーハンやガルブレイス「ゆたかな社会」なども検討の俎上に上がっている。 大衆の登場はヨーロッパ近代で始まったが、筆者が言うような意味での消費社会は、アメリカ実現されたものだから、アメリカからの引用が多いのは当然だろう。 1968年のフランス五月革命は、現代社会に対する根底的な懐疑をもたらしたが、本書はその成果の一つだろう。 筆者の論述は、オルテガの「大衆の反逆」なども感じさせ、現代の資本主義社会を「消費社会」としてとらえようとする。 1960年代は、50年代から続くアメリカ繁栄の時代だったから、消費を語るとすればアメリカ以外にはなかった。 フランス人でありながら、分析の対象はアメリカだったのである。 筆者が批判するのは、経済学が需要と供給で市場原理を説明し、 経済活動が人間の心理に直結している、かのように論を進めることである。 筆者は経済学と社会学のあいだに、はっきりと線をひく。 そして、人間社会を説明できるのは、社会学だと言い切るのである。 そうした意味では、ヨーロッパもまた何年か遅れで、アメリカの後を追ったことは歴史が証明した。 消費者の行動をわれわれが社会現象と見なすようになるのは、選択という行為がある社会と他の社会では異っていて同じ社会の内部では類似しているという事実が存在するかからである。これが経済学者の考え方と異なる点である。P82
おそらく筆者は気がついていないだろうが、筆者はここで、社会によって欲望の構造が異なると言っている。 農耕社会と工業社会では、合理的な選択という行動は同じであっても、合理的な選択の内的な質が違うのである。 もちろん情報社会のそれとも違う。同じ社会現象や心理構造が、内的な質として違うというのは、なかなか理解されにくい。 しかし、この指摘によって、物的な世界から関係性の世界へと、思考の幅を広げることができたのだ。 経済学が大衆の登場によって発達したとすれば、工業社会の学問であり、近代の発想であった。 社会学は情報社会の大衆を対象にする。 だから、社会学は物に発想の基盤をおくのではなく、観念それ自体を扱うことになる。 物から見ていた既存の視点からすれば、筆者が提出した視点は絵空事に見えたろう。 そして、すべてを転倒させたように感じたに違いない。 それは情報社会になってみれば、当たり前のことだったのである。 しかし、筆者の論は根元的な限界があることを、知らなければならない。 工業社会は農耕社会のうえに成立し、情報社会は工業社会と農耕社会のうえにしか成り立たないように、消費は生産のうえにしか成り立たないのである。 生産から消費へと社会の価値が移動しても、生産がなくなるわけではない。 生産の範囲内でしか、消費があり得ないことは、どんな社会でも正しい。 消費のみ語る傾向があるが、消費は生産を越えることはできない。 「ゆたかな社会」になり、消費の欲望を生産が越えてしまったから、消費が主導権を握ったにすぎない。 生産のないところに、消費だけが存在することはない。 ソフトはハードを越えられない。 そうした意味では、未開社会こそ豊かな社会だったというのは、筆者の詭弁である。 既存の価値や言説を、いっさい否定し転倒してみせるのは、ジャーナリスティックに見事ではあるが、とても危険なにおいが漂っている。 この危険さに気づかずに、簡単に参ってしまったのが、フランスかぶれしたわが国の学者たちであろう。 とりわけ現代思想といわれる分野では、フランス思想が一世を風靡した。 そして消費が生産を越えるかのような言説を振りまいた。 しかし、情報社会が本格的に展開し始めると、フランス思想では対応できなくなるのは自明である。 いまやフランス現代思想は、フランス本国と極東の小国にしか見いだせない。
参考: アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988 木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009 アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003 三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005 クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994 ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000 柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001 山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002 ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005 網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993 R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000 クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994 ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001 谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001) シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001 エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999 村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986 吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982 大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985 ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001 富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001 大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998 東嶋和子「死因事典」講談社ブルーバックス、2000 エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991 リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982 柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001 江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967 森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001 エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998 オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995 小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995 佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009 佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009 S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980 北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003 藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007 成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 J・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009 杉田俊介氏「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005年 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008年 山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006年 J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957 ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
|