著者の略歴−1857〜1929、ノルウェー移民の子として、アメリカの西部にうまれる。孤高の生活態度だったので、正教授になれず、シカゴ、スタンフォード、ミズーリーの各大学を転々とした。離婚したうえ、数名の女性と交際し、当時の良識派から顰蹙を買う。パロ・アルトに山小屋を建て、「墓も建てず、伝記の類もいっさい出版してはならない」という遺言を残して、8月3日に死んだ。 本書は、1889年にアメリカで出版されたもので、わが国では1924年に大野信三、1959年に陸井三郎、1961年に小原敬士の訳書が刊行されている。そして、1998年に高哲男によって、あらためて訳出された。原典が原典なので難解ではあるが、、丁寧に訳されており、読みやすいものに仕上がっている。
きわめて優れた着想によって書かれた書物であり、社会を考えるには必読の文献である。本書を読むにあたっては、今日使われている言葉からすると少し戸惑う。有閑階級ときけば、有閑マダムを想像するように、働かずに優雅な生活をおくっている人たちを思い浮かべる。 そう考えて間違いではないのだが、本書がいう有閑階級とは、むしろ支配階級とおきかえると理解がたやすい。有閑階級とは産業的な労働から免除されていながら、名声を伴う職業につく前近代における支配階級、つまり王や貴族そして僧侶たちのことである。生産労働から離れている階級として、歴史を見ようというのが本書の狙いである。 有閑階級という制度は、共同社会が原始未開から野蛮状態へと移行する間に、誕生した。つまり平和愛好的な生活習慣から、一貫性をもつ好戦的な生活習慣へと移行する間に、漸次的に発生したものである。有閑階級が発生する必要条件は、当時の社会が、略奪的な生活習慣を認知していなければならず、一定部分が生産労働に従事しなくてもすむ生産段階にあることである。 初期の人間社会は、霊=生気があるということを重視しており、英雄的行為と骨の折れる仕事の間には、画然とした区別があった。しかも、多くの場合、前者は男性に対応し、後者は女性に対応していた。そして、私有財産の発達は女性をまず所有の対象とした。と、以上のように、筆者は言う。この展開は、レヴィ=ストロースの女性を交換の対象とみる理論を思わせる。 富の所有が賞賛の対象になる、と次のように言う。 洗練の度が増してくると、祖先や他の先行者からの相続によって受動的に取得された富が、ゆくゆくは所有者自身の努力によって取得された富よりもはるかに尊敬に値するものになってくる。P40
有閑階級は、生産的な労働には従事しないが、社会的には重要性をもつ。 富裕な有閑階級の慣行、振る舞い、ものの見方が、そうでない人々に対する義務的な行為規範のようなものになってくる、という事実は、その階級の保守的な影響力の厚みと広がりを加重する。そうなると、彼らの指導に従うことは、標準的な人々すべての責務になってしまう。それゆえ、より富裕な階級は、作法の権化としての高い地位のおかげで、その階級のたんなる数字上の強さが割り当てるものをはるかに超えて、社会の発展に対して阻害的な役割を発揮するようになる。P224 なんという冷徹な見方であり、皮肉な見方であろうか。人間が保守の心性に入り込むのは、自然だといわんばかりである。そして、産業から身の回りの感情のありかたを論じ、自然環境を超える技術進歩が人間の外部にあるり限り、つねに適応が要求され進化を止めることはできない。 訳者は解説で次のように言う。 たとえ新しい適応を迫るような変化が自然環境の側で生じなかったとしても、産業技術の発展が続くかぎり、人間の思考習慣はつねに新しい産業技術への適応を余儀なくされるから、結果的に思考習慣=制度の進化は無限に続くことになる。産業技術はたんなる知識にすぎないとはいえ、その発展・変化は、産業に従事するすべての人に新しい技術を理解するように、つまり「ストック」としての知識体系を理解できるような精神態度や思考習慣を身につけて、適応するように要請する。その意味で、社会的に蓄えられた知識=「ストック」としての産業技術は、個々の人間にとってはつねにかなりのエネルギーを要する理解の対象であり、したがって外的な環境なのである。P455 こうした物の見方が、制度派と呼ばれる所以であり、経済学者か社会学者か判らないと言われる原因であろう。しかしこの見方は、今日の経営学には充分に反映されている。供給側つまり生産側の分析だけではなく、需要側つまり消費者の動向を分析するようになると、個人を捉える視点として制度派が有効になる。 19世紀に書かれた本で、さまざまな限界はありながらも、社会を見る視点に関しては、本書は充分に新鮮である。 政治経済学は理屈だけで語れたから先行したが、社会経済学は統計を不可避としたので、立ち後れた感がある。しかし 、コンピュータの発達は、それを乗り越えるだろうし、その時には本書のような視点は有効になるだろう。
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