著者の略歴−1900年ドイツのフランクフルトに生まれる。ノイデルベルク,フンラクフルトの大学で社会学,心理学を専攻し,1925年以後は精神分析学にも携わる。現在は精神分析的方法を社会現象に適用する新フロイト主義の立場に立ち,社会心理学界に重要な位置を占めている。フロムはナチに追われてアメリカに帰化し,ペニントン大学教授をへて,現在メキシコ大学教授。 1941年に出版された本書は、現在まで多くの版を重ねている。 イギリスに遅れること10年、1951年にわが国でも出版されると、たちまち多くの読者を獲得した。 自由を手に入れた近代人が、自由を認めないナチズムになぜ賛同していったか、 筆者の問題意識はきわめて同時代的だった。
自由をめぐる考察から、筆者は前近代へと思考を進める。 前近代には自由はなかった。 いうところの自由は、近代になる過程で獲得されたものであり、反対に自由の獲得が近代への道だったとすら言っても良い。 近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。人間はその社会的役割と一致していた。かれは百姓であり、職人であり、騎士であって、偶然そのような職業をもつことになった個人とは考えられなかった。社会的秩序は自然的秩序と考えられ、社会的秩序のなかではっきりした役割を果せば、安定感と帰属感とがあたえられた。そこには競争はほとんどみられなかった。ひとは生まれながら一定の経済的地位におかれ、それによって、伝統的に定められた生活程度は保証されたが、同時に、より高い上層階級の人間にたいする経済的義務は果さなければならなかった。しかしこのような社会的地位の限界を破らないかぎり、自由に独創的な仕事をすることも、感情的に自由な生活をすることも許されていた。いろいろな生活様式をあれこれと自由に選ぶという、近代的な意味での個人主義(しかしこの選択の自由は非常に抽象的なものであるが)は存在しなかったが、実際生活における具体的な個人主義は大いに存在していた。P53 前近代にあっては、誰にも自由はなかった。 神が生きていた時代には、自由なる概念はなかった。 農民は一生にわたって農民であり、職人の家に生まれれば一生にわたって職人だった。 職業選択の自由も、移住の自由もなかったが、所与の労働を果たせば生きていけた。 そして、支配階級に属するものは、働かなくても生きていけた。 どのような社会でも、人間は生きようとするかぎり、働かなければならない。多くの社会では奴隷に仕事をさせることによって、この問題を解決し、自由な人間は「より高尚な」職業に身をささげた。そのような社会では、働くことは自由人のなすべきことではなかった。中世社会でもまた、仕事の重荷は社会的階層のなかのさまざまの階級のあいだに、不平等に分配されていた。そして多くのひとびとが残酷に搾取されていた。P101 本書には、前近代と近代の違いが、ほとんど完璧に記述されている。 時代に対する認識は、現在読んでも少しの違和感もない。 むしろ、神に無自覚なわが国現代の思想状況よりも、はるかに鋭く歴史を見ている。 自由をもたらした近代は、素晴らしいもののはずだった。 しかし、ナチスが政権を執った。 近代を信頼していた知識人たちが、ナチスの台頭から受けた衝撃は想像に余りある。 わが国の思想状況は、むしろ近代化が進行しきらなかったせいで、封建制の残存を懐古し近代をはじめから忌避していた。 そのため、天皇制ファッシズムへの抵抗感がなかった。 それは今日までも続いており、社会的な混乱は近代化が不充分だからだとは考えずに、 前近代への憧れとなって現出する。 それはわが国の伝統の見直しといったかたちで、「新しい教科書を作る会」のように何度も何度も再生してくる。 わが国には、本当の自由はない。
とすれば、近代がなぜナチズムを生んでしまったのか、ぜひとも解明しておかなければならない。 社会心理学をもちだす筆者の姿勢からは、一種の壮絶感すら漂っている。 近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。P4 と冒頭で結論つける筆者は、問題の所在がどこにあるか、正確に言い当てている。 問題意識に関しては、現在でも充分に通用するし、 筆者の立てた問題は今でも解答が与えられてはいない。 しかし、本書で展開する筆者の解答は、今から見ると的外れといわざるを得ない。 フロイトがその権勢を誇ってから、いくらも時間が経っていなかったからだろうか、個人の心理と社会心理を同じ次元で考察している。 わが国を例外として、今日ではフロイトを論拠にあげることはない。 フロイトの非科学性は明瞭である。 ましてサディズムとマゾヒズムで、社会現象を説明することは笑止である。 しかし、次のように述べる筆者の視点は、基本的に正しいと再確認するべきだろう。 近代人は伝統的権威から解放されて「個人」となったが、しかし同時に、かれは孤独な無力なものになり、自分自身や他人から引きはなされた、外在的な目的の道具となったということ、さらにこの状態は、かれの自我を根底から危くし、かれを弱め、おびやかし、かれに新しい束縛へすすんで服従するようにするということである。それにたいし積極的な自由は、能動的自発的に生きる能力をふくめて、個人の諸能力の十分な実現と一致する。自由はそれ自身のダイナミックな運動法則にしたがい、自由の反対物に転換しようとする一つの危機に到達した。P296 自由を失いたくなかったら、前近代を懐古するのではなく、 近代を進める方向つまり後近代を指向すべきである。 核家族が崩壊するから大家族を見直すのではなく、 核家族を崩壊させて単家族化することこそ、より大きな自由を確保する道である。 女性が台頭した現在、やっと神の死にとどめをさせるのであり、近代を終わらせることができる。 肉体が支配していた前近代から、男性の頭脳が支配する近代になり、 今後は男性と女性の頭脳が支配する後近代へと時代は進む。 そこでの人間の幸福とは、いかなる形になるかが、今後の問題である。
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