著者の略歴− 民主主義は手垢のついた言葉である。 民主主義を支持するとか、民主的にやるといえば、誰でもが納得する。 では民主主義とはいったい何かと聞くと、たちまち口ごもってしまう。 本書は筆者が考えた民主主義である。 筆者は、単に民主主義というのではなく、ラディカルという形容詞をつけているのだ。
社会主義が民主主義の代名詞とされた時代もあった。 とりわけ、ロシア革命の直後は、非人間的な資本主義から人間を解放するのは、社会主義だと声高に宣伝された。 ソ連詣でをしたおじさんやおばさんたちが、こぞってソ連を絶賛し、 ソ連では本当の民主主義が実現されるといった。 1964年に発売された岩波新書「新しい家族の創造 ソビエトの婦人と生活」を読むと、 恥ずかしくなるくらいの絶賛ぶりである。 たまたま手元にあるから、この本を取り上げただけで、ソ連を民主主義の国と絶賛したのはあまたあった。 ソ連という社会主義国が崩壊してしまったので、 中国の社会主義に民主主義の可能性を託すのかと思いきや、中国を民主主義国だとは誰も言わない。 本書もソ連やレーニンは引用しても、中国の社会主義には、民主主義の可能性を見ていない。 これは、民主主義という概念をつくるのは西洋人、という前提があるせいだろう。 西洋人以外は、出来上がった民主主義を使わせていただく、そう考えているのではないか。 典型的な白人優越史観である。 民主主義とはコモンセンスだと言えば、つまりそれはわかりやすい思想だということである。P38 人民が権力を持っている状態とか、コモンセンスといっただけでは、何も語ったことにはならない。 それは筆者も理解している。 アリストテレスは民主主義の根本はくじで役人を決める制度であって、これに対し選挙で選ぶのは貴族政治だと教えた。くじ引きで決めるやり方は、市民一人ひとりが全体を代表できる政体を前提とし、この政体を発展させ維持するように機能する。P64 近代の西ヨーロッパと、ギリシャ・ローマは別の人種である。 近代西ヨーロッパの先祖を、ギリシャやローマに求めるのは、神話を語るものである。 西ヨーロッパとギリシャやローマは、時間的にも空間的にも離れすぎている。 アリストテレスへ飛んでしまうのは、現実回避といわれても仕方ないだろう。筆者はフィリピンへ行ったり、政治運動にかかわっているにもかかわらず、 現実から論理を組み上げてくる資質が薄い。 筆者は古いタイプの政治運動家だからなのかもしれないが、 現実を見るのではなしに、かくあらねばならないという当為命題が先行する。 労働を通して人間は地球を世界に変え、自分自身の自然を文化に変え、空間を場所に変えた。 労働によって人間は、豊かな諸工芸の伝統を発達させたが、ルイス・マムフォードはこれを『機械神話』の中で見事に描き出している。P143 第二次世界大戦以来、東京は醜い都市になったが、ごく最近登場した住宅は醜悪というよりむしろ ぞっとする代物だ。東京にはもはや建築上のスタイルを維持するにたる技ないし文化的伝統は残っていない。住宅はどんな顆のスタイ ルでも建てることができるし、実際建っている。つまり、建築上のスタイルなどどこにもない。建物ではなく製品なのだ。P146
地獄への道は善意に先導される、といった恐怖を私は本書から感じる。 工業社会という近代が犯した罪はたくさんある。 しかし、近代がもたらした福音もまたたくさんある。 少なくとも、前近代より近代のほうが良い。 おそらく筆者は、第二次世界大戦以前の東京を知るまい。 戦前のわが国が、いかに因習に満ち、身分制が跋扈していたか。 紙と木でできた家のがいかに使いにくかったか。 筆者には、そうしたことは考慮の外である。 どんな生き方をしていても、そこに人間が生活している以上、醜悪であるはずがない。 私は現在の東京は、空気のよどんだパリよりも、ずっと美しいと思っている。 農業こそ人間の仕事であり、自発的になされうるものだ、というのが本書を流れるトーンである。 ハンナ・アーレントを引用して弱者側に立っているようだが、農耕社会から工業社会への流れは不可避である。 近代を非難するのではなく、工業社会のなかでいかに生きるかを考えるべきである。 最後に民主主義とは信仰であるといっているが、それには同意する。 結局、何を信じるかの戦いでしかない。 そういった意味では、どんな信条でも本当に信じれば、きわめて過激になり、 現体制にとって手強い相手になる。 それは戦前の天理教などが示したとおりである。 筆者がいうように、ラディカルな民主主義が農耕社会を志向するとしたら、筆者の政治学に未来はない。反体制を志向する人たちは、なぜ懐古的になってしまうのだろうか。 体制というできあがったものに反対しているうちに、 自分で創りだす力を失ってしまうのだろう。 考える枠は体制が与えてくれる。現存する体制に反対すればいい。 だから口では反体制を唱えながらも、結局のところ体制追従になってしまう。 そして,体制以上に保守的になってしまうのだ。 おそらく反体制を唱える人たちは、生活に追われる庶民ではないからだろう。 だから、農耕社会は人間的だった、と暢気なことを言っていられるに違いない。 情報社会は非人間的だといっていないで、 社会の変化を先取って、より人間的に組み替えていくことを考えるべきだ。
参考: 天野郁夫「学歴の社会史」平凡社、2005 浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005 佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社、1988 ボール・ウイリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996 寺脇研「21世紀の学校はこうなる」新潮文庫、2001 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991 アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、 I・ウォーラーステイン「新しい学 21世紀の脱=社会科学」藤原書店、2001 レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955 ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981 野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996 永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005 イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997 エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970 オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997 ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002 増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996 宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987 青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000 瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001 鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999 李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983 ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999 匠雅音「家考」学文社 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975 E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997 橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984 石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007 梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000 小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001 前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985 成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000 デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007 ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003 三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005 ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005 フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974 ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990 ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000 C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007 オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006 エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992
|