著者の略歴−1930年生まれ。ビンガムトン大学フェルナン・ブローデル経済・史的システム・文明研究センター所長。1993〜95年には社会科学改革グルペンキアン委員会を主宰し、そこで交わされた討論リポートを「社会科学をひらく」(邦訳1996年、藤原書店)としてまとめた。世界システムの理論構築の草分けとして知られ、ことに「近代世界システム」全3巻(邦訳、岩波書店・名古屋大学出版会)の著作は有名。近著−「ポスト・アメリカ」邦訳1991年、「脱=社会科学」邦訳1993年、「アフター・リベラリズム」邦訳1997年、「転移する時代」邦訳1999年などがある。 <世界システム>という概念をうみだして、世界の歴史を解いて見せた筆者の講演集である。 講演のためか、ひじょうに平易な文章で、とても判りやすい。 本書で、現在の世界システムといったときは、近代の資本主義といいかえても、それほど間違いではない。 だから、今日の反システム運動は、反資本主義運動をさすことになる。
第1部はいわば現状認識で、第2部はその認識論となっている。 近代は国民国家というかたちで形成されてくるが、前近代の危機意識は次の3つの解をもって、近代の軟着陸に成功した、と筆者はいう。 1. 普通選挙権の普及 2. 社会福祉の導入 3. 国民という意識の創造 P39 西ヨーロッパが革命にゆれる以前は、支配は特権階級の専権事項であり、特定の支配者たちが国を超えて結ばれていた。 だから、庶民が支配の末席に連なる、といったことは想像できなかった。 貴族や王室が元気だった100年以上も前のことは想像しがたい。 が、それと同じかたちが、中国に見ることができる。 中国共産党は人民の支配といいながら、実は高級党員といった支配者をうんだ。 共産党支配の内実は、解放以前とほとんど変わっていなかった。 一種の政権交代にすぎなかった。 それが現在、固定化した共産党の支配が硬直化しはじめた。 いわゆる普通選挙へと移行せざるを得なくなっている。 もちろん、まだ中国には普通選挙はない。 労働者は無限に存在するわけではない。 生産人口の伸び以上に、労働者が消耗したら、支配が成立しない。 社会福祉の導入も、必然であった。 国民という言葉が、そんなに古いものではないことは周知である。 筆者は以上の事項を点検するなかから、これからの展開を考える。 その認識の基礎には、 民族解放運動が真に完全に解放の力とはなりえなかったことも含めて、全体としての反システム運動が、まさに失敗したということが、これからの25〜50年間にポジティヴな発展をもたらす、最も希望のある要素を与えてくれているということである。P72 と、いう楽観とも悲観ともつかない見方がある。 これを肯定するかは否かはおくとして、前向きに考えなければ、今後への論のたてようがない。 筆者の将来を見通そうとする意志はきわめてかたい。 近々の50年で現在のシステムつまり資本主義は変質するだろうといっている。 資本主義と呼んで良いか判らないが、近代が大変身を遂げるだろうことには、私もまったく異論がない。 近代はすでに終わっている。 女性の台頭によって、普通選挙が男性から女性へと広がったことは、もはや未開発の土地がなくなったことである。 そして、農耕から工業化へは、農業従事者の減少を促進させ、もはや地球上には安い労働者が存在しなくなるだろう。 筆者もいうように、脱農業と女性の台頭が、近代を終焉させるに違いない。
本書にはアメリカ人としては、マルクス主義的な意見にも耳を傾ける柔軟性があり、筆者の現状分析には概ね肯定できる。 1968年を転機ととらえており、周辺化された人たちの反乱が、現代に続く問題を白日のもとにだしたという。 ポスト1968年の諸運動は、そこに新しいものを付け加えた。彼らは、人種主義や性差別主義は、単に個人の偏見や差別の問題ではなく、「制度的」な形態をとるものであると強調したのである。P207 市民という言葉のかたる内実が、すべての人に開かれているようでありながら、じつは隠然とした差別の形態を孕んでいる。 女性や外国人は市民ではなかった。 ほんらい市民というのは、市民以外の者がいるから、市民という概念が成り立ったのである。 市民外の人が、自分も市民だと言いだした。 だから、市民を近代国家の構成員だとすれば、近代に根底から揺さぶりがかかっているのは自明である。 封建制の崩壊を次のようにとらえ、来るべき資本主義の崩壊になぞらえる。 封建制を維持していた、鍵となる三つの制度の同時的崩壊によって説明されるというのが私の考えである。すなわち、領主、国家、教会の崩壊である。人口の激減から、耕作者の数が減少し、頁租が減少し、小作料が減少し、商業が衰退し、結果として、制度としての農奴制は、衰退ないし消滅した。一般に農民は、大地主に対して、はるかに良い条件を引き出すことができたわけである。その結果、領主の権力と財源は、深刻な打撃を受けた。すると国家もその歳入が減少し、同時に、領主たちが困難な時代のなかで個人的な状況をなんとかしようと互いに争いあったために (結果、貴族層が破壊されて、農民に対する彼らの力はさらに弱まった)崩壊した。そうして、教会は内部からの攻撃に遭った。それは、経済状況が悪化したためでもあるが、領主層の崩壊が、全般的な権威の失墜を招いたからでもある。P229 この分析は、すでに多くの人たちが同じようなことをいっており、特別に目を引くものではない。 上記に続いて、筆者はおもしろいことをいっている。 第一に注意しなければならないことは、これは、不可避であったどころか、予期されえぬ、意外な展開であったということである。第二に注意すべきことは、これは、必ずしも、幸せな解決ではなかったということである。P230 通常、封建制の崩壊から資本主義への移行は、歴史の必然だといわれる。 しかし、筆者はそういっていない。 現在でも、工業社会から情報社会化への転化を、誰でもが望んでいるわけではない。 さまざまに批判される近代だが、現代人は近代の終焉を望んではいない。 この2つの視点は、現代を考えるうえで、傾注すべき発言だろう。 第2部のほうが、私にはより刺激に富んでいる。 凡百の学者は、過去の整理にのみ目を向けているが、 筆者は現在と近い将来のために、過去を見ている。 そして、ブリコジンを援用して、「確実性の終焉」を説きながら、来る社会を凝視している。 真なるものと善なるものの分離が、近代の特徴である。 両者の分離が哲学=神学と科学の分離につながったのだという。 そして、ニュートンの世界が拡張されて、相対的な世界になったがゆえに、確実性は終焉する。 しかし、そこに再度、真なるものと善なるものの統一が図れるのではないか、という。 このあたりに関して、筆者はきわめて楽観的である。 マレーシアのマハティール首相は、アジア諸国がヨーロッパ文明の諸価値の一部あるいは全部を拒否しても、「近代化」は可能であり、またそうすべきであるという主張を行なっている点で、きわめてはっきりとした立場に立っている。P304 近代が何であるか、どうやらヨーロッパ系の人たちにも理解されてきたようだ。 近代が西ヨーロッパで誕生したとしても、近代化するのは西ヨーロッパ以外には不可能というわけではない。 近代とは土着の概念から、いまや普遍へと変わっている。 筆者の友人であるテレンス・K・ホプキンズの、次の言葉で締めくくられている。 上へ、上へ、そして上へと向かっていくよりほかに、傍らに場は残されていない。それは知的水準を高く、もっと高く、さらに高くするという意味だ。優美。精確。節度。公正。忍耐。以上。P424 いろいろと考えさせられた、楽しい1冊だった。
参考: M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975 E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988 イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001 田川建三「イエスという男」三一書房、1980 ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997 橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984 石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007 梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000 小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001 前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985 成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000 デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007 北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006 小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000 松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001 斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978 ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988 吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983 古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000 ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003 三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005 ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005 フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993 リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974 ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990 ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000 C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007 オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006 エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
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