編著者の略歴−1977年兵庫県生まれ。東京大学教育学部卒業、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍中。現在、灘高等学校教諭(日本史)、および大学非常勤講師。専門はジェンダーとセクシエアリティの社会史。共著に『「育つ・学ぶ」の社会史−「自叙伝」から』(藤原書店)、『セクシュアルマイノリティをめぐる学校教育と支援』(開成出版)などがある。HP=http://www.geocities.jp/maekawa_00/ 明治期に流行した「学生男色」とその解体プロセスを実証的に追うことで、現在の社会が何を排除し、何を犠牲にして成立しているのかを明らかにした、と筆者のサイトにある。 34歳の研究者の初めての単著だということで、文章も何となく初々しい感じがする。 男色と言えば「伊勢物語」あたりが引かれ、まず貴族や僧侶のそれに言及されるのだが、筆者は江戸時代から話を始める。 そして、江戸時代は男色がさかんという俗説に対して、筆者は必ずしもそうではないと言う。 武士の間にあった男色も、江戸中期にはすでに衰退していたと考えられます。藩によって温度差はあるものの、武士同士の男色は、少なくとも表向きは「御法度」とされていました。江戸時代の幕藩体制は「家」同士の主従関係を基盤とし、主人その人ではなく「主家」への忠誠を誓わせるものです。そこでは家臣同士であれ、主君と家臣であれ、個人同士の深いつながりによって結ばれる男色は、秩序をおびやかしかねないものと見なされたのです。P27
そこでは個人の結びつきが強かった。 しかし、幕藩体制が安定するにつれ、個人よりも組織の秩序が優先するようになった。 そのため、男色は江戸中期で表舞台からは消えていく。 その理由は、筆者も言うように、男色で結ばれる関係が武士個人間の繋がりを重視し、武士の本分である主君への奉公が、個人的な関係と衝突するから、男色は否定され始めていったのだろう。 氏家幹人も「武士道とエロス」で同じような考察をしている。 何にせよ原理主義や愛情至上主義は、現秩序にとっては厄介ものなのだ。 明治になって、硬派の学生が登場する。 軟派が女郎さんを相手にしたのに対して、硬派とは年下の少年を相手にしたのだ。 まさに男色である。 白い袴をはいた学生たちが、美形の少年を襲った一種の流行現象でもあった。 学生男色の理想が、当時の小説「賤のおだまき」や「薩摩心中」に描かれたという。 しかし、それは虚構でしかないと筆者は次のように言う。 特に後の二点、女性が小説中に一切登場せず、主人公二人が男色関係を保ったまま、若くして死んでしまうという設定は、この理想的な男色関係があくまで小説の中で作り上げられた虚構でしかないということを示しています。二人がそのまま成長していたら関係はどうなったのか、女性と結嬉はしなかったのか、二人の目の前に女性が登場したらどうなっていたのか。これらのことが、小説中で問われることは一切ありません。P47 優れた恋愛小説というのは、主人公たちが死んで終わるのではないだろうか。 たとえば、「ロメオとジュリエット」にしても死んでしまうから読者の心をつかむのだし、「テルマ アンド ルイーズ」だって死んでしまうから、テルマとルイーズの2人に共感するのだろう。 男色の愛情至上主義であれば、主人公の男性たちが死んだから、読者の男性たちが共感したのだ。 それを虚構と言っては、小説自体を否定することになるだろう。 小説や映画と言ったフィクションは、その時代の現実を体現しているはずで、フィクションを通して現実を読むべきなのだ。
女学生の登場が、恋愛→結婚→家庭という幸福イメージを誕生させ、女性への恋愛が主流になっていく。 しかし、女性の職業はなかったから、男性が働き、女性が家庭に入るという核家族が成立してくる。 そこで、男性の絆がセックスを除いたものへと組み替えられていったらしい。 女学生の登場と言っても、戦前には見合結婚が95パーセント以上だったはずで、ちょっと強引な論証な感じがする。 しかし、学生男色と言えども男色だから、高齢男性から若年男性への性関係であり、ここまでは何とか理解できる。 筆者は大正時代になって、同性愛者が誕生してくるという。 ここからちょっと不透明になってくる。 この同性愛は男色と異なり、年齢の上下関係はなくなっている。 ただ同性への性的な欲望を自覚する男性だという。 「日本では昔から同性愛が盛んだった」などともっともらしく語られることがありますが、戦国時代や江戸時代の男色、そして明治期の学生男色は、あくまで「年上の男性(能動)→年下の少年(受動)」という形式にかぎられていたことに注意しなければなりません。「同性愛」という言葉が登場したことで初めて、「同性問の性的な関係や欲望」全般について表現できるようになったのです。P150 本書を読むかぎり、男色と同性愛の関係には論及されていない。 男色であっても同性愛には違いないのだから、両者の関係を論じるべきだろう。 男色が隆盛だった時代には、同性愛はなかったのだろうか。 なぜ男色では年下責めがないのだろうか。 同性愛が誕生して以降は、男色は消滅してしまったのだろうか。 現代には男色はないのか、などなど。 たしかに男色と同性愛は違うのだが、違うものだと言ったときには、さまざまな疑問が噴出するはずだ。 男色から同性愛、そしてゲイ差別という展開は、省略しすぎである。 5章以降になると、それまでの文献渉猟が影をひそめて、現代的な問題意識が全面にでてくる。 そのため、ゲイ差別反対と女性差別反対がストレートに語られて、願望をこめた決意宣言となってくる。 筆者自身もバイセクシャルだと言うが、これでは大学フェミニズム村でしか通じないのではないか。 本サイトは以前から、男色とゲイは違うものだと言ってきたので、筆者の立場を支持する。 しかし、キリスト教徒など反対派からは本書は恣意性に流れていると言われても仕方ないだろう。 若いせいか、伏見憲明の「ゲイという経験」や風間孝&河口和也の「同性愛と異性愛」などより文章が明るいのが救いだが、閉鎖的な大学指向が感じられてフェミニズムと同じような顛末を辿るような感じがする。 筆者の研究が、求職運動に終わらなければいいのだが。 (2011.8.18)
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999 デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005 氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995 岩田準一「本朝男色考」原書房、2002 海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005 キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也「ゲイ・スタディーズ」青土社、1997 ギィー・オッカンガム「ホモ・セクシャルな欲望」学陽書房、1993 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「男同士の絆」名古屋大学出版会、2001 スティーヴン・オーゲル「性を装う」名古屋大学出版会、1999 ヘンリー・メイコウ「「フェミニズム」と「同性愛」が人類を破壊する」成甲書房、2010 ジョン・ボズウェル「キリスト教と同性愛」国文社、1990 堀江有里「「レズビアン」という生き方」新教出版社、2006 フリッツ・クライン「バイセクシュアルという生き方」現代書館、1997 前川直哉「男の絆」筑摩書房、2011
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