匠雅音の家族についてのブックレビュー    男のイメージ−男性性の創造と近代社会|ジョージ・L・モッセ

男のイメージ
男性性の創造と近代社会
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著者:ジョージ・L・モッセ    作品社、2005年  ¥3200−

 著者の略歴−1918年、ベルリン生まれ。歴史家。1933年、第三帝国成立にともない自由主義的ユダヤ人のモッセ一家は国外へ脱出。1939年、一家は米国へ移住。46年、ハーバード大学で博士号取得。その後ウイスコンシン大学、ヘブライ大学で長く教鞭を執った。99年没。邦訳書『大衆の国民化』『ナショナリズムとセクシュアリテイ』『フェルキッシュ革命』『英霊』(以上、パルマケイア叢書、柏書房)、『ユダヤ人の〈ドイツ〉』(講談社選書メチエ)。

 現代社会の男性性は近代になって作られた、と本書はいう。
まさにそのとおりである。
近代は男性支配の社会であり、女性の社会的な地位が、対男性において前近代より低下した。
両者は、同じことの表と裏であり、男性性が確立したゆえに、女性性は低下したのだ。
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 近代社会といえば、西洋文明つまり工業社会をさすが、本書の慧眼は、近代社会を総体的に捉えていることだ。
そのため、普通にいう西洋市民社会だけではなく、ソビエトの共産主義社会にも、ナチの社会にも、同質の男性性が支配していた、という。
これもまったくそのとおりである。

 前近代とは肉体労働が支配した社会であり、肉体労働に従事していた人たちは、改めて身体を鍛えようとはしない。
スポーツや体操の発明は身体の発見であり、頭脳と身体の分離があったから可能になったのである。
前近代にあったのは、格闘技にすぎなかった。

 本書全体を通して見るように、男らしさの理想を普及させたものは、最終的には近代社会そのものにほかならない。中産階級社会が、ブルジョア的感受性に適合するように、貴族的な男性性の理想とは異なる男らしさのステレオタイプを創出し、それを支えることに寄与したのであった。
 男らしさのステレオタイプは、19世紀の強力な政治的イデオロギーのいずれか特定のものだけに結びついたものではない。それはしばしば主張されるように保守的な運動を支えていた。しかし、それに限定されず労働者運動をも支えており、ボルシエヴィキの男性でさえ「樫のように力強い」と形容されていた。
 近代的な男性性は、その最初期から19世紀の新しいナショナリズム運動に取り入れられていたが、それは、同時にインターナショナルな啓蒙主義を背景にしつつも存在しえたのである。P13


 西洋市民社会の自由主義に対して、共産主義やナチズムは非人道的で、人権抑圧・人間性の抹殺を行ったと言われがちである。
しかし、共産主義もナチも、まごうことなき近代社会であり、そこには自由主義と共通の男性性が支配していた。
そして、その裏返しとして、共通の女性性が支配していた。

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 貴族や武士の男性像が、近代社会の男性性と重ねて見えるかも知れないが、両者ははっきりと違う。
健康で筋骨たくましいギリシャ彫刻のような男性像が理想となったのは、近代社会のおいてであり、それは我が国でも事情は同じだった。
そして、筋骨たくましい男性性が、近代社会を支えたのであり、女性もそうした男性を頼もしく思い、大いに好感を持ったのである。
 
 女性たちはあらゆる権利を奪われ、はとんど夫の家財道具となった。両性間の分離が完了した時に、ナポレオン法典が結論を与えたのであった。ジエンダー間の分離の明確化の基本的な理由については、ここではそれはど詳細に取り扱うことはできないが、核家族の創出、女性を働く場から排除する経済構造の変革、何度も述べたように、男らしさの理想によって象徴化されるダイナミックさと秩序を必要とした新たなブルジョア社会の必要の中に見出されるのである。P86

 本書は、近代社会がいかに独自の男性性を生み出し、それがどう展開されて、現代社会へと承継されてきたか、入念な論証を加えている。
イギリス、ドイツ、ロシアの分析が中心だが、これだけで近代の男性性の分析として充分だろう。
そして、理想的な男性性が、変容を受けていく課程も、また充分に分析の対象となっており、むしろ変容課程の分析のほうを、当サイトは評価する。

 ユダヤ人の迫害や同性愛の弾圧など、健康な近代がいかに逸脱に狭量だったか、本書はこれでもかと論じ続ける。
その意味では、本書は自由主義の末裔であることは間違いない。
近代というのは実に矛盾した社会である。
自己を相対化する視点の獲得は、近代そのものだが、自己相対化が逞しい肉体を生み出したと同時に、ゲイや黒人の解放そしてフェミニズムの誕生を促したのである。

 男性的でない男性、女性的でない女性の可視化が今や定着した。真の男性性への挑戦は、単に可視化するだけでも、過去の世代を怒らせるのに十分な挑発であったが、そこをはるかに越えて進んだ。多くの法的差別が終わりを告げるまでには、既に述べたように、戦後なお数十年かかった。さらにその後10年近く経ってから、少なくともいくつかの国々では、同性愛者の権利が公的に認められた。
 1970年代と80年代に、ゲイのサブカルチャーが定着し、支配的で標準的な文化に影響を与え、我々が議論してきたような若者文化と交流しそれを補強した。P291


 我が国では、ゲイのカミングアウトもないし、いまだに核家族を守ろうとしている。
本書もいうように、核家族は近代の産物であり、いまや人間を家族に縛り付けるものだ。
情報社会ではより自由な単家族にならないと、人間は幸せになれない。
情報社会は急速に進展しているのに、我が国は工業社会の近代に拘泥し続ける。

 筆者はすでに鬼籍に入っている。
本書を書いたのは老人になってからである。
老人の書いた本書を読んでさえ、核家族守ろうとする我が国は、
情報社会の敗者になりそうな予感がしてならない。    (2005.09.09)
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参考:
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
モートン・ハント「ゲイ:優しき隣人たち」河出書房新社、1982
カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995
プッシイー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
エリザベート・パダンテール「母性という神話」筑摩書房、1991
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
斉藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
ジョルジュ・ヴィガレロ「強姦の歴史」作品社、1999
R・ランガム他「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
斉藤学「男の勘ちがい」毎日新聞社、2004
ジェド・ダイアモンド「男の更年期」新潮社、2002
ジョージ・L・モッセ「男のイメージ」作品社、2005
北尾トロ「男の隠れ家を持ってみた」新潮文庫、2008
小林信彦「<後期高齢者>の生活と意見」文春文庫、2008
橋本治「これも男の生きる道」ちくま書房、2000
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
関川夏央「中年シングル生活」講談社、2001
福岡伸一「できそこないの男たち」光文社新書、2008
M・ポナール、M・シューマン「ペニスの文化史」作品社、2001
ヤコブ ラズ「ヤクザの文化人類学」岩波書店、1996
エリック・ゼムール「女になりたがる男たち」新潮新書、2008
橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998
蔦森 樹「男でもなく女でもなく」勁草書房、1993
小林敏明「父と子の思想」ちくま新書、2009

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
竹内久美子「浮気で産みたい女たち」文春文庫、2001
石原里紗「ふざけるな専業主婦 バカにバカといってなぜ悪い」新潮文庫、2001


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