著者の略歴− 1951年福島県に生まれる。1979年お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科人間発達学専攻修了。現在、順正短期大学幼児教育科教授、日本教育思想史専攻。『日本女性生活史4 近代』(共著,東京大学出版会,1990年)『「性を考える」わたしたちの講義』(共編著,世界思想社,1997年)他。論文「教育家族の成立」『叢書 産む・育てる・教える一匿名の教育史1〈教育〉−誕生と終焉』(共著,藤原書店,1990年)「母性,父性を問う−子産み,子育てにおける男と女」『性というつくりごと』(共編著,勁草書房,1992年)他 近代を研究していた筆者が、自分の問題意識に引きずられて、近世へと踏み込んだと、あとがきにある。 実に自然な発展であり、本書の真面目さが良く伝わってくる。 私も近代=明治維新を専攻していた頃、江戸時代へと問題関心が遡っていったので、 筆者の気持ちはよく分かる。 近代から近世へ踏み込むには、古い文字を読む力を付けなければならず、 研究者としては一大決心だったろう。
本書は、わずかに残されている文献を、丹念にひもといて、見えぬ時代を良く考察している。 文献を読み込むのに熱中するあまり、文献の社会的な位置に盲目になる例が多い中で、筆者の立場は徹底して庶民側にある。 支配者側が書いたものであろうとも、なぜ支配者が書かざるを得なかったかを考えて、庶民側から読み直している姿勢は、 鮮明な問題意識がなさせるのだろう。 好感がもてる。 家が生産組織であり、家に属しないと生きていけなかった農耕社会。 この時代には、子孫の繁栄は自分の老後の保障でもあり、誰にとっても元気な子供が必要だった。 だから、妊娠出産は家全体の重大事件だったに違いない。 しかし、耕作面積に限界のあったことが、生存可能な人間の数をも決めていた。 人口の人為的な制御が、江戸時代にすでに行われていたのも不思議ではない。 本書は、出産と同時に、間引き・堕胎に同じように目を向けている。 農耕社会で生きていく上で、個々の人間の生死は、現代以上に大きな意味があったはずだから、これは当然の視点と言うべきである。 江戸後期になり、人口が停滞期にはいると、幕府が人口統制を試み始める。 ここで支配の意思が、女性の身体に及んだという。 産む、産まないことを、体制が支配するのは、近代の特徴だと言われてきたが、本書は近世にその萌芽を見るのである。 この見解は、おおむね妥当だと思う。 年貢取り立てのためとはいえ、人口減は支配者にとって好ましいことではなかったはずである。 だから、人口の管理が関心事になるのは当然だったに違いない。 藩は懐胎届けを出させるようになり、妊婦の管理を始める。 その記録には、死産もある。 死胎となった時期をみると、女性の農業労働との関わりが、より明らかになる。死胎となった時期は、4月が4件、5月が2件、10月が3件と、4、5、10月に集中している。増沢村、新沼村の肝入をつとめた又兵衛の文政2年(1819年)の日記によって、この地方の農事暦をみると、4、5月は、代かきから始まる田植えの時期、10月は、稲こきや大根の収穫、米つきの時期と、ともに農繁期にあたる。家族労働を主体とする農業労働のなかでは、妊産婦であっても重要な労働力であり、激しい労働に従事しなければならなかったのであろう。また農作業にとっては、農事暦に示されるように時期をたがえないことが重要な意味を持つ。P110 農耕社会だった近世に生きた人たちは、子供の誕生はもちろん歓迎しただろうが、 それ以上に自分たち自身の生活が優先したに違いない。 社会福祉などなかった時代、その年の食料生産をしくじれば、翌年の生活に支障が出た。 だから、子供の命よりも自分たちの生活が優先されたのは当然だった。 子供は産み直しがきくが、季節に支配されている収穫時は、人間を待ってくれない。 今日、安産というと、母子ともに健康であることを思い浮かべる。 しかし、当時は違ったという。
子供は死んでも安産と記すのは、いかに成人たちの生活が優先されていたかを示している。 筆者も言うように出産が命がけであったかを示している。 当時は、肉体がすべてにわたって露出していた。 個体維持においては、男性の屈強な身体が、女性より優位だった。 そして、種族維持においては、女性が男性より優位だった。 いずれの優位も、肉体の構造が決定した。 農耕社会では、男性は大きな個体維持と小さな種族保存、 そして、女性は小さな個体維持と大きな種族保存という、性別役割分担ができていた。 この性別分担は、農耕社会という肉体の属性が強いたものであり、これに逆らっては誰も生きていけなかった。 だから、女性が農作業にも参加したように、出産に男性も参加していたのは当然だろう。 近世の民衆のなかでも主要部分をしめた、封建的小農民と言われる人々の「夫婦かけむかい」という、夫婦でともに労働し、子どもを育てるという生活のありかたからすれば、出産についても女と男が関わっていても、少しも不思議ではない。出産に男が関わるというのは、現代になってはじめて、たとえばラマーズ法などのかたちで新しく登場したというのではなく、近世の民衆の男たちも、実は出産に関わっていたのだということに注意をしておきたい。P261 と筆者は言うが、まったくそのとおりだろう。 近代にはいると、庶民全体の生活水準は向上する。 そのため、女性もその恩恵を受けて、安全で快適な生活が営めるようになる。 近代化により女性の生活も向上するが、男女の相対的な格差がむしろ拡大していくとは、本サイトの論じるところである。 肉体労働が人々の生活を支えていた時代は、 働ける人間のすべてが自分の力に応じて、労働に勤しんでいたはずである。 たとえ非力な女性といえども、労働力であるかぎりにおいて、粗末に扱われたとは考えられない。 小さな労働力を蔑視したり、無視したら、男性たちの生活も困難になっていただろう。 そのため、小さな労働力といえども、大切にされたはずである。 本書は、難産にも言及している。 貴人富家の上層女性に難産が多く、民衆女性は臨月まで働き続けるから安産だ、という例を挙げている。 出産は一大事であるが、人間の自然の営みの一部であり、出産と労働が自然の営みとして、通底している証拠だろう。 これを読むと、働かない専業主婦の出産が、困難となるのも理解できるところだ。 労働から遠かった貴人富家の上層女性は、労働せずに体が鍛えられなかったので難産になった。 それにたいして、臨月近くまで田や畑で働いた庶民の女性は、肉体労働が女性の身体を鍛えてくれた。 だから出産が軽かった。 現代でも事情は同じだろう。 子供を産むことに特化した生活は、女性の肉体を鍛えない。 出産を重大視するあまり、専業主婦となることは、難産の道を選ぶことだろう。 体験することのできない近世の生活を、いかに想像力を働かせて体験するか、筆者は良く格闘している。 大学フェミニズムのイデオロギー臭を感じはするが、 文献資料を庶民側から見ようとする姿勢が、かろうじて真摯な歴史家でいさせている。 労働を忘れた大学人が多いなかで、肉体労働をふまえた視線に星を献上する。 (2006.1.06)
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