匠雅音の家族についてのブックレビュー    弱者救済の幻影−福祉に構造改革を|櫻田淳

弱者救済の幻影
福祉に構造改革を
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著者:櫻田淳(さくらだ じゅん)−春秋社、2002年  ¥1800−

著者の略歴− 1965年宮城県生まれ。北海道大学法学部を卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。衆議院議員政策担当秘書を務めるかたわら、94年に論壇デビュー。第1回読売論壇新人賞最優秀賞、第1回正論新風賞を受賞。現在は、慶応義塾大学大学院公法研究科非常勤講師を経て、言論活動に専念。2002年4月、東洋学園大学現代経営学部専任講師就任予定。著書に『「福祉」の呪縛』日本経済新聞社、『国家への意志』中央公論新社、共著に『「弱者」という呪縛』(PHP研究所)などがある
 重度の身体障害者が、弱者救済は幻影だというのだから、時代は確実に進んでいる。
重度の身障者は一番の弱者だと思うが、筆者には弱者と見られる視線が、鬱陶しいのだろう。
弱者救済というと、裕福な人が働けない人に恵んであげる。
そんな感じがある。
しかし、福祉とはもともと労働力の確保(=兵士)のために生まれたものだ。
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 前近代にあっては、人々は家族を生産単位として働いた。
各人が家族を支えたので、家族にとって各人は不可欠だった。
だから、家族は構成員の健康にも留意した。
働けなくなれば家族が面倒を見た。
しかし、工業社会になると、働く場所は工場に移り、家族は生産の場ではなくなった。

 近代で家族の役割が変質した。
生産単位ではない家族は、何も生産してはいない。
だから、構成員の面倒を見ることができなくなった。
国家が国民の面倒見ないと、社会全体の生産が維持できなくなった。
そこで誕生したのが、福祉である。

 しかし、わが国では前述のように福祉を考えてはいない。
本書は、筆者のいらだちから始まる。

 私が批判したのは、従来の「福祉」政策の拠って立つ前提であった。それは、「障害を持つ人々は、「弱者」であり、手厚い保護が与えられなければならない人々である」という前提であった。この「福祉」政策の前提は、障害を持つ人々が「弱者」という枠組から抜け出し社会の中で然るべき立場を得ようとする際には、重大な支障となっていた。「弱者の保護」を大義に据えた政策は、障害を持つ人々が社会の中で正当な位置を占めていくのを支援するものとしては、余り役に立たないものであったのである。P9
 
 農耕社会から工業社会まで、肉体的な障害は生産活動の妨げだった。
肉体労働が主流だった時代には、肉体の機能が生産性に大きく影響した。
だから身体障害者は、生産活動に参加できず、差別の対象になった。
また、医療が未発達だったので、重度の身体障害者は長く生きることが難しかった。
しかし、情報社会化する今、身体障害は生産活動の上で、それほどの障害とはならなくなった。
頭脳さえ明晰であれば、身体障害者も充分に労働力たりうる。
医療の発達は、身障者の活動を後押した。

 働ける者を働かさずにおくほど、社会は豊かではない。
社会的な生産は、なるべく多くの人が支えたほうが良い。
障害者であろうと、働ける者は働いてもらう。
そして税金を納めてもらう。
そのために社会基盤の整備が必要なら、それは行政が行う。
そのほうが結果として、健常者の負担が減る。
これが現代の福祉の考え方である。
そこには恵むとか、救うといった発想はみじんもない。
  
 普通は、人種、階級、性別、保持する資産などの点で「弱者」の境遇にある人々は、個人の才覚と努力によって自ら身を立て世に出ることを通じて、社会の階梯を上り、そのことによって自らの「救済」を図っていくものである。問題は、そのような自らを「救済」する機会が、社会制度上、適正に用意されているかということなのである。P34

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 自らを救済いいかえると労働者となる道が閉ざされていることが、差別である。
働きに行こうにも車椅子が通れない道では、事実上働くことを禁止していることだ。
働きたくても、女性は入社試験を受験できなければ、女性の労働が禁止されていることを意味する。
年齢によって採用制限があれば、高齢者は就業禁止されている。
差別の残る社会は、生産性が低い。

 差別の解消は、人々の意識を変えることではない。
社会的な制度を変えることだ。
同じスタートラインに並べるように、制度を整備するのが差別の解消である。
障害者を弱者だということは、それ自体で障害者蔑視である。
女性がもはや弱者ではないように、労働条件さえそろえば、身体障害者は弱者ではない。
自らを弱者だというところからは、けっして自立の芽は生まれない。
 
 「障害者=弱者」という図式が自明とされている現状では、特に「健常者」とされる人々にとっては、「障害者」の言動や活動を表立って批判することは、一種の「弱者いじめ」に似た印象を世に与えることになる。その印象の悪さを避ける意味では、障害を持たない幾多の人々にとっては、善意の眼差しで敬遠することが、障害者の言動や活動を前にした態度としては無難なのである。P106

 あなたと同じように扱ってくれ、という筆者のいらだちは、非常によくわかる。
自分とは違う人間だからと、やんわりと区別して、棚上げするような無礼は許さない。
それでは秘めた実力も発揮できないではないか。

 高度情報通信社会の到来は、特に障害を持つ人々が社会活動や経済活動を進めていく上では、明らかな追い風となっている、無論、高度情報通信社会の「影」の部分は様々に指摘されているけれども、それ自体が可能性であることは否定すべくもない。P211

と筆者のいうとおり、情報社会化は身体障害者に障害を感じさせなくする。
おおむね筆者の主張には賛同するが、筆者の論は工業社会の残滓をつけている。

 情報社会では頭脳労働が主流にはなるが、
それは頭脳の優劣が労働力の評価基準になるということである。
かつては職人の手元など、多少の知恵遅れでも仕事はあった。
しかし今後は、知的障害者の職業は厳しくなっていくだろう。
知的障害者を労働戦力化することに対して、私たちはまだ何も解決法をもっていない。

 蛇足ながら、乙武洋匡氏の「五体不満足」をめぐる話は、原則的には了解するが、
職業人の定義にかんして多少の疑義がある。
工業社会までは、たしかにいわばその道のプロが職業人だった。
しかし、これからの職業選択は、一芸に秀でたような職業人を、指向するのが本当に良いのだろうか。
乙武氏のタレント的な売りに危なさを感じるが、職能の体得方法にはさまざまな道があるのではないだろうか。
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参考:
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イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
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青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
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ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
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G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
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ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
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ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
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フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
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小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
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ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
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オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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