匠雅音の家族についてのブックレビュー   人間になれない子どもたち−現代子育ての落し穴|清川輝基

人間になれない子どもたち
現代子育ての落し穴
お奨度:

著者:清川輝基(きよかわ てるもと)  竢o版社 2003年 ¥1500−

著者の略歴− 1942年生まれ。64年、東京大学教育学部教育行政学科卒業。同年、NHKに入局。社会報道番組ディレクターとして、「新日本紀行」「ニュースセンター9時」などを担当。海外取材番組「教育の時代」、NHK特集「警告=子どものからだは蝕まれている!」「何が子どもを死に追いやるのか」など教育問題、子どもをテーマに取り上げた特集番組も多く手がけた。89年、報道局首都圏部長。92年報道局次長。94年、長野放送局長(長野オリンピック放送実施本部兼務)。1966年「福岡子ども劇場」創立。99年「チャイルドライン支援センター」設立などの活動も続けてきた。現在、NHK放送文化研究所専門委員(「メディアと子どもプロジェクト」メンバー)、「子ども劇場全国センター」代表理事、「チャイルドライン支援センター」代表理事、「子ども自書」編集委員。
 テレビなどのメディアの影響で、子供の身体が発育不全になっている。
背筋力が衰え、視力の低下が激しい。
そして、足の指が地面につかないと、筆者は警鐘を鳴らす。
主として1980年代の資料を使っているが、それでも耳を傾ける声だと思う。
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人間になれない子どもたち―

 豊かさを求めて、国民が一丸となって、高度経済成長を求めてきた。
その結果、快適で便利で、安全な環境が実現された。
しかし、快適で安全な環境は、必ずしも子供の成長に最適の環境ではない。
むしろ便利すぎる環境は、子供の成長にとっては残酷な環境だ、と筆者は言う。

 1960年代以降、日本の産業構造は大きく変化し、その変化のなかで、「生産の単位」であった家庭・家族は「消費の単位」へと変質していった。
 現在、日本の就業人口の81%が給与生活者となっている。家庭という場は消費生活の単位となってしまった。
 消費の場である家庭では、大人(親)と子どもは同格である。
 親父はビールを飲みながらテレビのプロ野球中継を見る。息子はコーラを飲みながらサッカー中継を見る。新開を読むのも、食事をするのも、服を着るのも、パソコンを使うのも、大人と子どもに消費者としての本質的な違いはないのだ。P46


 消費社会になったことによって、また核家族になったことによって、大人と子供は同格になった。
しかし、核家族とはいえ大人の、しかも男性だけが稼いできた。
家族を維持する上では、大人と子供は決して同格ではない。
にもかかわらず、消費者としてみると、大人と子供のあいだに違いはない。

 消費社会を賛美し、消費社会を実現しようとしてきたのは、大人たちだ。
その大人が作った社会が、子供の成長には不適切だというのは、何といったらいいのだろうか。
<いまの子供は…>と、世の大人たちは言うが、子供には反論のしようがない。
どんな社会でも、そこに適応して生きていくしか、子供には生きる方法はない。

 筆者は、こんな社会を子供に与えてしまったことを嘆いている。
子育てを家庭にだけ任せ、家庭教育が大事と言いながら、子育てを母親に任せきりにしている。
性別役割分担を原則とする今の核家族では、母子密着にならざるを得ない。
子供は母親の顔色を見ながら、母親の抑制の元に育っていく。
母親の手の届くところにしか、子供の遊び場がない。
これでは子供が自由になるはずがない。

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 子供を母親に預けっぱなしにしておきながら、テレビは視聴率を上げるために何でもありである。
コミック雑誌にしても、ファミコンにしても、売り上げを伸ばすことしか考えていない。
子供への影響など、まったく考えていない。
こうした環境では、身体だけではなく、精神も健全に育たないと筆者は言う。

 かつて我が国は子供天国だった。
江戸末から明治に来日した西洋人は、我が国の子育て環境に口を揃えて賛美した。
明治になっても、教育には多大のお金をつぎ込んだ。
それがいつの間にか、子供を軽視するようになった。

 「子どもの権利条約」を日本が批准したのは、国連で採択されてから4年5カ月後の1994年4月のことで、当時の国連加盟国180カ国のなかでなんと158番目という遅さであった。この対応の遅れにも、次の世代をまっとうに育てるという課題を二の次三の次にしてきた日本の社会や政府の意識の現れを見ることができる。
 日本という国は、国際的にも「子どもの権利後進国」なのである。
 批准からおよそ9年が経過したが、国内的には教育基本法や児童福祉法などの個別法より上位に位置づけられるこの国際条約にもとづく施策がどの程度実施されているかといえば、残念ながら、国レベルではほとんどない、というのが実情である。P166


 大家族の時代には、子供は労働力であり、跡継ぎだったから大切にされた。 
しかし、勤め人の家庭では、子供の存在意義はない。
子供は無用なのだ。
にもかかわらず、親たちは子供を育てざるを得なかった。
そのため、戦後の我が国では、子供は大人の付属物、しかも親が子供を自由にして良いと見なされていた。

子供を独立した人格と捉える視点は皆無で、公園や子供のための建物ですら、子供の意見を聞くことなく作られてきた。
子供はあくまで管理の対象であり、大人の都合が優先されて、何の疑問もなかった。

 筆者はテレビ報道や番組制作に携わってきた経歴である。
一種の懺悔かも知れない。
しかし、こうした発言はすでに多くからなされている。
にもかかわらず、一向に変わる様子はない。
筆者はかつての地域の結びつきが良かった、と考えていることが気になる。
過去を基準に、現在が悪いというのは、発展性のない思考方法に見えるのだが。

 もし、子供が本当に発育不全なら、我が国の子供たちは天寿をまっとうできるだろうか。
日本人の平均寿命は、まだまだ伸びている。
筆者が嘆くの事実だとしたら、寿命の伸長はいつか止まるだろう。
それはいつなのだろうか。
ちょっと気にあるところである。   (2010.2.7) 
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参考:
H・J・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995  
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
宮迫千鶴「ハイブリッドな子供たち」河出文庫、1987
エーバーハルト・メービィウス「子ども共和国」風媒社、1987
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997

下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993

吉廣紀代子「非婚時代」朝日文庫、1987
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997

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