匠雅音の家族についてのブックレビュー   孤独なボウリング−米国コミュニティの崩壊と再生|筆者 ロバート・D・パットナム

孤独なボウリング
米国コミュニティの崩壊と再生
お奨度:

筆者 ロバート・D・パットナム  柏書房 ¥6、800 2006年

編著者の略歴−1941年米国ニューヨーク州ロチェスター生まれ。1970年にイェール大学で学位取得。ミシガン大学を経て、現在ハーバード大学教授。この間ハーバード大学ケネディ行政大学院学長、米国政治学会会長等を歴任した。比較政治学、国際関係を始め広範な領域で多数の編著書、論文を発表しでいる。既刊の邦訳育として「サミット」(TBSブリタニカ、1986年、共著)、「哲学する民主主義」(NTT出版、2001年)がある。

 700ページ近い大判の本で、いかにもアメリカ人の書いた研究書である。 豊富なデーターをグラフ化して描いており、1960年以降のアメリカの変化を論じている。

 1960年代まで、アメリカ社会は地域の人間関係がしっかりと結びついており、人々はさまざまなグループをつくって活動していたという。たとえば、ブリッジ・クラブ、公民権運動、慈善団体、教会活動、PTA、ボーリング会、こうした小さな人関係が暖かな社会を作っていた。筆者はこうした直接的な人間関係を、「社会関係資本」とよんでいる。

 社会関係資本の減少に伴って、投票率も下がってきた。また、離婚率も上がり、結婚まではセックスをするべきではないという性的道徳もすたれてきた。いわゆる市民参加がへって、人々は切り離され地域からも離れ始めた。それはベビーブーマー世代以降、顕著に見られる傾向である。民主主義とは市民参加を前提しとしているはずである。

 
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  この頃からグリーンピースなどの環境保護運動や、女性解放運動が台頭してくる。しかし、こうした運動は旧来の運動とは、少し違った側面を持っていた。それはダイレクトメールによる勧誘によるもので、いわゆる人と人との直接的な結びつきといった、社会関係資本によるものとは言えなかった。そのためか、会員数が伸びるのも早かったが、減少するのも早く、1998年までにグリーンピースの会員数は85%も落ち込んだ。

 社会関係資本によるものと思われるPTAも、1960年へと急激に会員数を増やしていったが、1960年頃を境にして、急激に落ち込んでくる。職場の繋がりも、1960年頃から落ち込みはじめ、1970年を過ぎると労働組合も急激に組織率を下げていく。教会活動も同様である。

 電話やインターネットは人間関係を広げはしたが、すでに知っている人々との結びつきを強化した。電話で新たな人間同士の付き合いが始まったというのは、ほとんど聞いたことがないという。おそらくメールも同じであろう。社会関係資本を減らした最大のものは、テレビであるという。

  テレビ娯楽への依存は、市民参加低下を予測する単なる有意な予測変数ということにとどまらない。それは、これまで筆者が見つけた中で唯一最も一貫した予測変数である。
 テレビを「主要な娯楽」であると答えたものは、ボランティアやコミュニティ事業への参加割合が低く、ディナーパーティやクラブ会合への出席が少なく、友人をあまり訪ねず、家で歓待をすることも少なく、ピクニックに行かず、政治にあまり興味を持たず、献血する割合も少なく、定期的な友人への手紙をあまり書かず、長距離電話も少なく、季節のあいさつ状や電子メールもあまり送らず、運転中に腹を立てることが多いと答えており、ここで比較対象となった集団とは、テレビが主要な娯楽ではないと答えたこと以外に人口統計学的な違いは存在しない。テレビ依存は、単にコミュニティ生活への関与が低くなるということに関連しているだけではなく、筆記、口頭、電子的というあらゆる形態の社会的コミュニケーションの低下と関係している。P280

 これは驚くべきことだ。テレビこそが地域の付き合いを崩壊させ、個人を家庭へと閉じ込めていった元凶だというのだ。本書はアメリカでは2000年に出版されているから、すでにインターネットは存在していた。しかし、インターネットが人を孤立化させているのではないという。

 確かにインターネットのメールは電話と同じで、すでに知った人とのあいだに交わされるものだ。メールによってより親密になりこそすれ、家庭に引きこもらせる原因にはなりにくい。また、各サイトを訪れることも、目的意識的に行っているのだから、テレビのようにもっぱら受け身的だというのとは違う。テレビは視聴者をテレビのまえに釘付けにする。しかも、特別に見たい番組がなくても、スイッチを入れておく人は多いだろう。

 本サイトは、労働の質が変化したことを重視しているが、本書の筆者も同じような意見を述べている。

  労働の性質が変化していることと、またそれと密接に関連した、女性の有給労働力ヘの移動は、20世紀を通じて米国社会に最も広範に広がった大変動の一つである。この職場の変容は、その重大さにおいて、一世紀前に米国が農場の国から工場と事務所の国へと変身したことと比較しうる。しかし21世紀の幕開けにおいて、米国の制度は公的なものも私的なものも、また職場における規範や習慣も、この変化への適応をようやく始めたにすぎない。第11章で見たように、この職場革命ははぼ同時に起こつた社会的つながりと市民的関与の低下と関係があると考えられる。P502

 人間関係資本の回復に関して、筆者はわりと楽観的である。2010年までに、米国の職場が家族へのやさしさと、コミュニティとの親和性を大きく高めようと訴えている。2010年はすでに過ぎてしまったが、むしろ人間関係資本はますます疎遠になっているように感じる。 (2016.07.05)

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参考:
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995  
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
ゲッツ・W・ヴェルナー「すべての人にベーシック・インカムを」現代書館、2009
チャールズ・マレー「階級「断絶」社会アメリカ」草思社、2013

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