匠雅音の家族についてのブックレビュー    私のための芸能野史|小沢昭一

私のための芸能野史 お奨度:

著者:小沢昭一(おざわ しょういち)  ちくま文庫、2004年   ¥800−

 著者の略歴−1929年(昭和4年)東京生まれ。早稲田大学卒業。俳優座養成所をへて、昭和26年俳優座公演で初舞台。以後、新劇・映画・テレビ・ラジオと幅広く活躍。一方、民俗芸能の研究にも力をそそぎ、レコード「日本の放浪芸」シリーズの製作により芸術選奨を受貰。著作活動も、著書「ものがたり・芸能と社会」(新潮学芸賞)のほか、「ぼくの浅草案内」「句あれば楽あり」「小沢昭一百景随筆随談選集」(全6巻)「放浪芸雑録」など多数。平成6年度、紫綬褒章受章。平成12年「紀伊国屋演劇賞個人賞」「読売演劇大賞優秀男優賞」を受賞。平成13年度、勲四等旭日小綬賞受賞。
  万歳、足芸、女相撲、浪花節、説教・絵解、トクダシ、大道芸人とならべて、ずいぶんと遠くまで来てしまったと思う。
本書は、本サイトに取り上げるつもりはなかった。
しかし、再読しているうちに、本書が辿ってくれた軌跡は、近代そのものではないかとおもった。
フェミニズムへの通底を感じたので取り上げることにした。
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 職人と並んで日銭稼ぎだった芸人たち。
今はテレビのおかげで、芸人も有名人と化したが、芸人は堅気の世界に生きてはいなかった。
私がかけだしの職人だった頃、すでに半纏姿で電車に乗る職人は少なかった。
ほとんどの職人は、電車に乗ることは晴れがましいことだと思ってか、電車に乗るときは洋服に着替えていた。
おそらく芸人たちも、職業服では電車に乗らなかっただろう。

 芸人も職人と同様に、世間では低く見られていた人種である。
巷間では名人芸とか職人芸と言われたり、国や役所から間違って表彰されたりする。
しかし、芸人の芸人たる所以は、職人と同様に無頼なのだろう。

 いま、わがブンカのホコリたる歌舞伎でも、その発生期の阿国歌舞伎といわれるものは、売春兼業の、わいざつハレンチなミセモノをやっていたにすぎない。度重なるオカミの取締りをかいくぐって、今日のハエアル歌舞伎が出来上ったが、ハエアル歌舞伎には、ハエナイ頃に観衆が狂喜した面白さが既にないようだ。
 だから芸能は、キビシイオカミの詮議取締りの、或は裏をかき、或は目をかいくぐりして、したたかに生きている時が、活力溢れる躍動期なのだ。
 江戸のむかし、遊女歌舞伎が禁止されると、女がだめなら男があるさで、若衆歌舞伎が生れた。若衆も風紀を乱していかんということになると、今度は前髪おとせば若衆じゃござんせんで、
野郎頭の野郎歌舞伎に変幻する。しかもサマにならない恰好の頭を、しゃれた紫帽子で隠して。この帽子がまたイカスッてんで、客はまたまたつめかけたとか。P174

 本書が取り上げている万歳、足芸、女相撲、浪花節、説教・絵解など、今ではとんと目にしない。
三河万歳は、まだ幼稚園だったころに、数回ばかり目にしただけである。
本書は1973年に上梓されている。
すでに30年以上も前のことだ。
芸人たちが淘汰されていくのは、当たり前のことだ。
しかも、消えゆく芸人たちは、何の声も上げない。

 職人だって同様である。
近代化の進展と共に、新たな職業が誕生したが、既存の職業もたくさん消滅していった。
下駄屋、桶屋、竹屋、上げればきりがない。
芸人や職人の消滅は、三洋証券や新潟鉄鋼の倒産とか、ダイエイが危ないとか、そんな話題になることはない。
誰も気が付かないうちに、黙って消滅していく。
芸人も職人も、身体に染みこませたものが売りだから、時代に合わせて変身できない。
 
 本書を読んで感じたのは、芸人も職人も国からは、何の援助も受けないことだ。
近代の学校教育から落ちこぼれた者が、芸人になり職人になった。
近代国家は企業が支えたので、企業内の人間は国家に保護された。
しかし、企業からはみ出した者は、最初から保護など当てに出来なかった。
だから芸人や職人の生活は厳しかった。

 本サイトが女性の解放を願いながら、我が国のフェミニズムに違和感を持つのは、国家権力や企業に保護を求めているように感じるからだ。
本来人間の解放とは、国家や企業とは異次元で、むしろ国家や企業を突き破ろうとするはずである。
しかし、我が国のフェミニズムは、自立の拠点を国家や企業にもとめ、人間としての屹立を求めないように感じる。

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 綿貫次郎という大道芸人が、次のように語っている。

 とにかくみんな金なんかなしでも暮せるの。ゼニないでしょう、朝、釜でオマンマたいて仕事に出掛ける時、質屋へ釜をもってくんだ。残ってるオマンマごと。それで仕事終っていくらかもらって、こいつをもらいうけるってわけ。P229

 現代社会は、上記のような貧乏を克服した。
だから近代を悪くは言いたくない。
しかし、国家や企業は人間を使い捨てる。
国家は人間を抑圧する。
国家は都合のいいときだけ、人間を利用する。
そう考えるので、当サイトは国家や企業の保護とは、まったく別の地平で論を立てている。
本書に登場する人たちも、また国家権力や企業とは無縁の人たちである。

 芸人や職人は、むしろ権力からは疎外されていると言っていい。
弾圧されたといっても過言ではない。
しかし、国家や企業から声がかかると、芸人や職人たちは生きるために、イソイソと出かけていく。
彼らには反権力といった意識はない。
勲章をやると言えば、喜んでもらうのが芸人や職人である。
クロウトをめざした筆者も、いくつもの勲章をもらっている。

 同時代で体験できたストリップも、何度も警察の摘発を受けた。
混浴や夜這いが、野蛮なものと否定され消滅した。
同様に、いかがわしいものは近代化の過程で抹殺される。
もちろん近代が実現したことは肯定するが、近代とはいかがわしさの排除だったのだろうとも思う。
そして、いかがわしさも人間の一部であり、いがかわしさの排除は、人間の一部分を否定することでもある。

 近代の成熟が、女性の解放を促したのは事実である。
情報社会が進展する今後、ますます清潔で無菌的になっていくだろう。
自然からは遠ざかっていく。
腕力の無価値化によって、女性は自立の契機を得た。
腕力の無価値化とは、自然から離れることだ。
だから、自然から遠ざかるほど、女性の自立は確立される。
ポルノを否定する女性の嗜好は、国家や企業の清潔指向と似ている。

 しかし、妊娠・出産を内包する女性の身体は、男性以上に自然志向である。
生理といい出産といい、女性の身体は、男性の身体以上に自然の摂理に従う。
とすると、今後女性の台頭は、非自然化する社会に支えられ、女性の肉体は自然に従うという、二律背反に生きることになるのだろうか。
とすると、女性存在自体が引き裂かれることになりはしないか。

 本書は芸人を描いており、フェミニズムにはまったく触れていない。
しかし、芸人を通して近代を描くことによって、人間存在自体に迫っている。
国家からはみ出した被差別の芸人たちは、差別されてきた女性の立場とどこか通じる。
近代の成熟という自然の否定がもたらす軋みを、本書は行間から立ち上らせている。
新装版の本書を買ってしまって、すでに自分の本棚にあったことを知った。
かつて一読した本書だが、再読しても充分におもしろく感じた。
(2005.04.13)
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参考:
荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001年
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995
ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990
長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995
池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986
佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000
伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995
ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998
ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991
伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995
瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983
宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004
荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001
奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008
田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991
柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001
パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990
仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 
小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004
小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969
赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003
金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007
町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002
藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002


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