著者の略歴−1959年3月3日、宮城県仙台市生まれ。東京都立大学助教授。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。1993年、「ブルセラ論争」をきっかけに一般にも注目を集める。「成熟社会」へと向かいつつある社会を分析する社会学者。 モノの豊かさが達成された70年代以降、近代は成熟期を迎えた、と筆者は言う。 「意味から強度へ」とか「物語から体験へ」といった、 筆者が展開してきた論理を、図式的に理解してもらうために、ある雑誌で「世紀末相談」を連載した。 しかし、現存する形態を否定しただけで、代替形態を呈示しなかったので、読者に混乱が生じた。 そこで本書では、サブカルチャーを分析することによって、代替形態を呈示するのだという。
本書では多くの作品が取り上げられているが、作品批評を目的とはしていない。 実存の意味論自体(?)を、社会的文脈と照らし合わせて、批評することを目的としているらしい。 それが成功しているか否かを問うのには、筆者の問題意識が鮮明に呈示されていないようだ。 本書は、月刊誌「ダ・ヴィンチ」の2000年6月号から2003年10月号まで、41回分の連載をまとめたものである。 近代が成熟過程に入り、選択肢の過剰によって、閉塞感が生じているという。 これを当サイトの言葉に置きかえれば、 近代が終わって後近代に入りつつあり、頭脳労働に特化した社会は、絶対的な相対の世界をさまよう、ということになる。 広松渡氏をもちだすまでもなく、少しモノを考えている人間なら、物的世界から事的世界への転換は常識である。 その意味では、本書への基本的な感想は、おおむね肯首できるものだ。 相対の世界でも、人間は生きるように強制されるが、 生きる意味も相対化され、確たる自己を見いだせない。 命の相対化に抗することができない子供たちは、現代社会からはみ出していく。 筆者は日本映画の中に、現代社会の縮図を見て、日本映画を題材に論じている場合が多い。 当サイトは、日本映画には不案内なので、筆者の言葉をそのまま信じるしかないが、引用されている作品の解説には疑問もある。 映画は観客の独自の読み込みを許すので、観客の観念で映画が再評価され得る。 もちろんその再評価は、映画評論として重要なのだが、 本書は映画評論ではないと言いながら、やはり映画を評価することからは逃れられない。 筆者のサービス精神からか、現代日本映画を褒めているが、話題にあげている映画は、本当に高く評価できるのだろうか。 仲間内の人間関係に、添いすぎているように感じる。 微視的な感覚に依拠しがちな日本映画は、大状況への目配りが薄い。 そのため韓国映画に越されているという。 「シュリ」を論じて次のように言う。
かくして友愛を私的、政治共同体への一体化を公的とする、ギリシア的公共性槻念が誕生する。ちなみにヘーゲルの言うように、近代市民社会はこうした槻念を否定。同じ共同体に属さない者たちが相互に侵害せず共生するために必要な作法の領域を、公的と裾えた。 親しき者のために戦地に赴く。何と能天気な観念論か! 映画の冒頭、北の特殊部隊訓練所で、親しき者の呪縛を切断すべく家族の写真を焼却するシーンが出てくる。盟友の見沢知廉が言うように北は戦前の日本と大差ないが、陸軍中野学枚でも同じことをしたのだ。P25 「アメリカン ビューティ」 「マグノリア」「ウエルカム トゥ サラエボ」の3作品を並べて、 神の死を論じながら、制御不能な偶発事によって「社会」に「世界」が闖入することがあり、 その時に「社会」のそと=「世界」が可視的になるという。 そして、この可視性は関係で苦しむ人々を、癒す力があるという。 「アメリカン・ビューティ」でビニール袋の風に舞うシーンが、可視性の表現だという。 可視性という言葉の使い方が特異で、理解に苦しむ。 3作品と並んで、「EUREKA」を取り上げてくると、疑問が生じてしまう。 大状況を「世界」と設定し、自分の周りを「社会」といっていながら、 「世界」がないはずの「ユリイカ」にも「世界」を持ち込んで、筆者は癒しの力を云々する。 「ユリイカ」への評価が低い当サイトとしては、戸惑うことしきりである。 国境や時代を超えて、人々が同じ主題を転がしているというのは、安易に過ぎる前提だと思う。 ただし、北野武の独善性にかんしては、筆者の見解に異議なく賛成する。 本書の前半では、こなれていない言葉が乱発されて、 筆者もきちんと限定しないまま、自分の言葉に酔っている。 そのため、筆者自身も良く理解できてはいない、と思われる部分が多々ある。 しかし、後半になると言葉が滑らかになって、筆者の中での主題が咀嚼され、理解しやすくなる。 「サイダーハウス ルール」と「ショコラ」また、「ミッシング・ガン」「チョコレート」と「チェンジング レーン」、「戦場のピアニスト」と「トーク・トゥ・ハー」と、前提を欠いた並列は強引であろう。 映画評論ではないといいながら、映画に対する好き嫌いが、随所に顔を見せて興味がそそられた。 「鬼が来た!」「メメント」や「マルコヴィッチの穴」などは、我が国の通俗的な評価とは違って、充分に好感が持ている。 しかし、「マルコヴィッチの穴」をダルイ(?)というのは、当たっていないと思う。 また、「オール アバウト マイ マザー」や「戦場のピアニスト」などの評価は、当サイトとはまるで違う。 筆者は近代の成熟と言うが、国による成熟度の違いが、映画に反映されているとは考えないのであろうか。 当サイトと評価の基軸が違うので、筆者は反論するかも知れないが、 3年間の連載で批評の基軸がぶれている。 そのため、作品への好き嫌いと、論理的な批評が一致せず、恣意に流れている部分がある。 また、特有の言葉使いが、思考の経路が筆者の中で、明確化されていないように感じる。 もう少し時間をかけて練らないと、対象化された思考としては提起できない。 新たな時代と格闘しているのはよく判る。 しかし、筆者の年齢を考慮すると、体系的な論述にはまだ時間が足らず、 思考の客観化は期待できないだろう。 明日の姿を指し示すのは、とても難しいので、本書程度でも及第点かも知れないが、 物足りなさが残るのも事実である。 (2005.01.25)
参考: 金子雅臣「ホームレスになった」ちくま文庫、2001年 石原里紗「ふざけるな専業主婦」新潮文庫、2001年 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993年(角川文庫 2001年) ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003年 大山史朗「山谷崖っぷち日記」TBSブリタニカ、2000年 吾妻ひでお「失踪日記」イースト・プレス、2005 金子雅臣「ホームレスになった」ちくま文庫、2001 石原里紗「ふざけるな専業主婦」新潮文庫、2001 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993(角川文庫,2001) ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003 大山史朗「山谷崖っぷち日記」TBSブリタニカ、2000 荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001 エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970 ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995 ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990 長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995 池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986 佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000 伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004 篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995 ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998 ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991 伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995 瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983 宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004 荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001 奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008 田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991 柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001 パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990 仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004 小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969 赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003 金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007 町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002 藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006 オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997 ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002 イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997 エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970 オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997 ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002 増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996 宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987 青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000 瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001 石原寛爾「最終戦争論」中公文庫、2001 多川精一「戦争のグラフィズム」平凡社、2000 レマルク「西部戦線異常なし」レマルク、新潮文庫、1955 ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」岩波書店、2000 アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」筑摩学芸文庫、2001 アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 戸部良一ほか「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社、1984 田中宇「国際情勢の見えない動きが見える本」PHP文庫、2001 横田正平「私は玉砕しなかった」中公文庫、1999 ウイリアム・ブルム「アメリカの国家犯罪白書」作品社、2003 佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社、2001 多川精一「戦争のグラフィズム 「FRONT」を創った人々」平凡社、2000 秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書、1999
|