匠雅音の家族についてのブックレビュー    仁義なき映画論|ビートたけし

仁義なき映画論 お奨め度:

著者:ビートたけし−文春文庫、1991年(1991年) ¥466−

著者の略歴−本名、北野武。1947年1月、東京生れ。明治大学工学部中退後、浅草のストリップ劇場などでコメディアン修業の日々をおくる。「ツービート」を結成し、漫才ブームで人気者に。著作活動、俳優そして映画監督と幅広く活動する。主な著作に「少年」「浅草キッド」(ともに新潮文庫)などがある。
 オイラは評論家じゃなくたって、自分のスタイルを持った映画監督であり、小説家・エッセイストであり、役者であり、TVタレントであり、そしてこれが一番肝心なんだけど、お笑い芸人なんだよ。文句あっか。P277

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という筆者の映画評論である。
1990年頃に作られた32本の映画に、まじめに評論している。
筆者がすでに映画を監督していること、また芸能界にいることによって、
本書はきわめておもしろい映画評論になっている。
とりわけ筆者自身が映画監督であるから、表現の何たるかを良く知っており、
評論だけをする物書きたちとはまったく違うものとなった。
しかも行間からは、表現の恐ろしさを充分に知っている様子がうかがえて、
読み応えのある本に仕上がっている。
 
 わが国では、映画監督は尊敬もされず、詐欺師の映画監督とは騙らない、と筆者は嘆いている。
医者やパイロットは騙っても、映画監督は胡散臭い存在で、騙るに値しないと世間で見られているのだろう。
小津、溝口、黒沢らが活躍した時代は、今いずこである。

 当時は世界中の映画が職人によって作られていた。
もちろん監督も現場のたたき上げで、助監督を何年もやった職人だった。
職人の時代には、わが国も世界を相手に戦えたのである。
しかし今や、ハリウッドは大卒の監督だけではなく、MBAをもったプロデューサーが企画する時代である。
全力で闘わないわが国が勝てるわけがない。

 本書のなかで、ほとんどの日本映画はぼろくそに言われている。
この評価には、ほとんど異論がない。
現在もひどいが、1990年頃の日本映画もひどかった。
例外は伊丹十三監督の「あげまん」だけである。
この頃の伊丹監督の映画は、独特の味わいがあり、コミカルな面白さがあった。

 筆者は伊丹監督には一目置いている。
伊丹監督の映画作りにかんしては、企画や観客へのアッピールの仕方など、感心してみている様子が感じられる。
しかし、「あげまん」はおらず、「さげちん」がいるだけだという指摘はおもしろい。
男性支配の社会では、そのとおりである。

 アメリカ映画にたいしても自由に発言し、アメリカ映画の力量に素直に脱帽している。
筆者の感覚は、充分に納得できる。
アメリカ映画のお金のかけ方に圧倒されているが、
アメリカ映画の味わいは、決してそれだけではないことも知っている。
「ドライヴィング・ミス・ディジー」への発言など、傾注すべきものがある。
戦争映画に対して、次のように言うのは賛成である。

 要するに戦争映画ってのは、勝った国が派手派手に撮って楽しむものなんだ。『明治天皇と日露大戦争』とかなんとか、その戦争は日本が勝っていたからね。エンターティンメントの戦争映画は負けたほうの国は作れない。負けたほうはヒューマンな反戦映画になっちゃう。P32

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 ベトナム戦争しかりだし、湾岸戦争しかりである。
筆者は映画を見ていないというが、最近の映画の動向はきちんと押さえている。
アメリカ映画で、女性の描き方が変わってきたことは、
セクシーそのものっていう女性が登場しなくなった、と女性像の変化に言及している。
こんな発言をしている映画評論家を、私はほかに知らない。
慧眼である。

 建前だけのお為ごかしを筆者は嫌う。
このあたりのセンスは、私と良く通じるものがある。
ヤクザの親分は悪人面なんてパターンはおかしいという。
むしろ笠智衆にヤクザをやらせろと言う。
このキャスティングも同感である。
映画とはフィクションつまり嘘であるが、上手く騙して欲しいのである。
冷静にフィクションをつくる彼の感性は、おそらく漫才の時代に養われたのだと思う。

 オレの親父が脳溢血で半身不随で長期入院してさ、人手がなくてオレが徹夜で看病したりして、ちょうどツービートが売り出し中の時で、徹夜明けの頭で浅草の演芸場に駆けつけたけど、あれは地獄だね、いま思うと。下の世話をしたあとで、漫才やって客を笑わせて、それでまた看病だもん、頭がおかしくなっちゃうよ。
 それがつらいっていいたいんじゃなくてだね、あとから考えると、漫才とかお笑いっていうのは、親が死にかけていても平気で漫才ができるヤツがやるんだってことを思うね、つくづく。悲しみを乗り越えて、なんていっているのはダメだよ。親がどうなっても平気なヤツ、人情とかいうことが入り込む余地のないヤツにふさわしい仕事だろうな。P258

それでいて、もちろん感情が豊かであることは当然である。
この発言は、きわめつきのリアリストのもので、信じるに値する。

 自然を愛するなんていうのは、都会人の台詞だという。
これにも賛成する。
環境を守れとか、自然を守れなんて言うのも、胡散臭い。
生計をたてるために、自然を変えるなというのは理解する。
この論理では、生計が立たなくなったら、自然なんて興味がないのだ。
これは当然だろうが、美しい自然を守れでは、一種のファッシズムである。
筆者は次のように言う。

 石打とか湯沢の人たちは、今でこそスキー客相手の商売で雪が少ないと困るんだろうけど、昔はひたすら雪をやっかいものどころか呪うぐらいのものだったと思うぜ。自然を愛するなんていうのは、都会のヤツらが距離を置いて自然を眺めているからいえる言葉であって、自然なんて実に残酷に人間を叩きつぶすものなわけで、そこに暮らす人からすれば自然は抵抗すべきもの、憎むものってところがあると思うけどな。都会人はすぐそこを勘違いしちゃう。
 テレビの料理番組で、竜飛岬で毎日しじみをとっているばあさんに向かってレポーターが、「うまいしじみですね。毎日こんなうまいしじみがとれて、おばあさん幸せですね」といったら、「何いってるんだ、ほかにとるものがないの。こんなもの毎日食ってうまいはずないだろう。毎朝、寒い思いしてしじみなんか とりたくねえ」って思いっ切り怒られたらしいぜ。P266

同感である。
彼のこうした自然観が、女性に厳しい発言になっていくのだろう。
自然は厳しく、本物の自然に直面したら、真っ先に逃げ出すのは現代女性だ、と彼は言いたいようである。

 1990年当時、筆者はまだ2本しか映画をとっていない。
この2本は優れた映画である。
しかし、筆者は映画を緻密に構成することができない。
頭から撮っていくだけの成り行き映画である。
それでもおもしろいから良いのだが、最近ではもうネタが尽きた感じである。
それにしても筆者の美意識はきわめて鋭く、筆者の映画に登場する筆者の絵は、彼の映画に優るとも劣らない。

 本書は、映画を作っている人が遠慮なく発言している。
もちろん、わが国の映画評論家には、手厳しい。
私は筆者とは立場を異にするが、教えられる発言がたくさんあった。
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参考:
ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995
ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990
長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995
池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986
佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000
伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995
ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998
ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991
伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995
瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983
宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004
荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001
奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008
田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991
柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001
パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990
仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 
小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004
小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969
赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003
金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007
町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002
藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985
瀬川清子「食生活の歴史」講談社学術文庫、2001
西川恵「エリゼ宮の食卓 その饗宴と美食外交」新潮文庫、2001
菊池勇夫「飢饉 飢えと食の日本史」集英社新書、2000
アンソニー・ボーデン「キッチン・コンフィデンシャル」新潮社、2001


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