匠雅音の家族についてのブックレビュー    父という病|岡田尊司

父という病 お奨度:

著者: 岡田尊司(おかだ たかし)   ポプラ社  ¥1400  2014年

 著者の略歴−1960年、香川県生まれ。精神科医、作家。医学博士。東京大学哲学科中退。京都大学医学部卒。京都大学大学院医学研究科修了。長年、京都医療少年院に勤務した後、岡田クリニック開業。現在、岡田クリニック院長。山形大学客員教授。パーソナリティ障害、発達障害治療の最前線に立ち、臨床医としで人々の心の問題に向かい合っている。主な著書に『パーソナリティ障害』(PHP新書)、『悲しみの子どもたち』(集英社新書)、『脳内汚染』(文春文庫)、『アスペルガー症侯群』『発達障害と呼ばないで』(共に幻冬舎新書)、『愛着障害』『回避性愛着障害』(共に光文社新書)などベストセラー多数。

 同じ筆者の「母という病」がよく売れた。
単行本として上梓されてから、2年後に新書になり2ヶ月で9刷りになっている。
他にも信田さよ子の「母が重くてたまらない」とか、斉藤環の「母は娘の人生を支配する」など、母親がらみの本はたくさん出版されている。
母親に悩む人が多いと言うことだろうか。

 母親に比べると、父親を巡る本は少ない。
しかも母親と父親では、取り上げる視点が少し違う感じがする。
母親の本が母子間の個人的な接触を扱うのに対して、フロイトの<父殺し>をはじめ、父親の本は社会的な父親像を巡るものが多かったように思う。
小林敏明の「父と子の思想」は自分の父子関係を元にしているが、信田さよ子の「父親再生」などは個人的な父親を扱いながら、父親を語るときは父親の社会的な役割に戻っているように感じる。

 本書でも、母親は生物的な結びつき=個人的な接触が基礎にあるが、父親との関係は社会や文化の状況によって変化するものだと言っている。
つまり、一義的な父親像なるものは存在せずに、社会がこれが父親だというものが父親のあるべき姿だと言うことになる。
とすれば、精子の提供者として以外に、父親の必要性とは何処にあるのだろうか、という疑問が生じて当然だろう。

 江戸時代の武士にとっては、子育てとくに男の子を育てるのは父親の仕事だった。
農業社会から工業社会へと変わり、大家族や地域共同体が崩壊した。
父親は単なる給料運搬人となってしまった。
母親は生物的な接触だから、母親の役割が時代遅れと言うことはあり得ない。
しかし、給料を除けば、父親のもたらす価値観=職業人として生きる手段は、もはや時代遅れかもしれない。
本書では、父親にとって子供が必要かどうかではなく、子供にとって父親が必要か否かが問われている。

 冒頭で本書は<父親は必要なのか>という考察をしている。
もちろん父親は必要だと言っているが、その必要度はずいぶんと控えめなものだ。
強い家父長権が前提だったエディプス時代から、エディプスなき時代の父子関係へと変化した。
<母という病>の実行犯は母親だとしても、母親をそこまで追い込んだのは父親だったという。

 エディプスなき時代において、父親はまったく重要性を失ったのかというと、決してそうではない。序章でも見たように、父親との関係は子どものその後の人生での社会適応や精神的な安定を左右する。母親との関係が盤石でなくなっている今日、その役割はむしろ大きくなっているとも言えるのだ。
 強い父権の存在しない、男女差の縮まった社会においては、母親との愛着が重要性を増すのと同様に、父親との愛着も、かつての社会では考えられなかったような重要な意味をもつ。それはある意味、父親の代理母化として理解することもできる。また、社会的な仕組みとしての父性が機能しなくなったことにより、生物学的な仕組みが、改めて重要性をもつようになっているとも言える。P40


 何という弱々しい発言だろうか。
母親が生物的に接触できなくなったので、父親はかつての母親の役割を期待されているという。
これでは女性・男性という性別は、必要性がないと言っているようなものだ。
「母なる病」ではオキシトシンというホルモンの話がさかんに出でてきたが、父親のホルモンはバソプレシンだという。
しかし、父親のホルモンは母親ほど重要な関係はない。ではどのように父親が子供に絡んでいくのだろうか。

 父親が社会的なものであるのは事実だろう。
何せ受精の瞬間しか、男性は役割を果たしていないのだから。
しかし、現代では子育ては男性でもできる。
人工栄養もあるし、子育てグッズもさまざまに市販されているから、産みの母親でなくても子育てができるように、男性も子育てが可能である。
と同時に、社会で働く女性も増えてきた。
とすると、女性の役割は出産だけになり、社会で働くが故に子供との接触が男性並みになる、そんな状況もありそうだ。

 子供を産むということを除けば、男女間での違いがなくなっていくのではないだろうか。
だから、母親との接触が父親並みになり、「母という病」にかかる子供が増えているのだろう。
男性とか、女性と言った仕分けが、意味を失いつつあるのだろう。
それでも出産が女性に残るとすれば、男性には何が残るのだろうか。

 エディプス・コンプレックスにしろ、「父の名」にしろ、後者の禁止的な役割ばかりが重視されがちだが、庇護者として子どもの安心感を守るという父親の役割も重要だ。父親の不在は、抑止的な機能が働かないだけでなく、安心感を脅かされやすい状況を用意する。
 たとえば、父親との離別を体験した子どもには、しばしば悪夢や夜恐症がみられる。不安が強くなったり、消極的になったりしやすい。
 父親のいない子どもは、一方で幼く誇大な万能感をもつたまま成長しやすいが、同時に、傷つきやすさや安心感の乏しさを抱えやすい。そのギャップが父親不在の子どもの一つの特徴だ。P45


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 「母殺しの思想 」でも述べたように、母殺しが進行している現代では、父親と母親が均質化している。
それは当サイトも筆者と同意見だ。
とすれば、あえて父親という言葉は出しにくい。
しかし、この筆者は父親の役割に拘る。

 本来、父親とは、情け容赦のない、恐ろしい存在だった。そのことは、母親への欲望を禁じるという性愛的な意味よりも、社会の掟やルールを教える、もっとも厳しい師という意味においてだった。言い換えれば、子どもを家から追い出し、自立させるという役割を担っていたのだ。憎まれ役になってでも、一切妥協せず、「死刑宣告」を下したのだ。P80 

 親が勝手に奉公先を決めてしまう農業時代には、父親だけではなく社会が子供の自立を要求していた。
工業社会になって父親が家庭から職場にでて、職場で出世競争に励むようになった。
そのとき、父親は意識的に子供から距離を取り、親しみよりも威圧感を与える存在に変わったのではない。
時代に促されて、無意識のうちに変わってしまった。
時代が父親の居場所を家庭から職場へと移動させてしまった。
だから、親の要求と社会の要求とが距離をへだて始めたのだ。

 サラリーマンになった父親は、子供に継がすべき何物も持ってなくなった。
もはや、身一つないなった父親は、子供の将来を勝手に決めてしまうような、絶対的な暴君でいられるはずがない。
生物的な基盤を持たない父性は、母性と変わらぬものへと変化していくのだろう。
だから筆者も次のように言うのだろう。

 父親が不在でも、母親が心の中にしっかりとした父親像をもち、子どもの父親に対して、肯定的な気持ちをもっていれば、子どもは父親の不在を乗り越え、良い父親像を手に入れ、それを自分の中に取り込むことができる。それが、社会の掟や秩序に対する敬意をもち、その中でうまくやっていくことにつながる。
 ところが、母親自身が貧弱で混乱した父親像しかもてなかったり、子どもの父親に対してネガティブな思いを抱いていると、子どもは父親像に同一化し、それを自分の中に取り込むことができない。母親を卒業できず、母親と融合したままの状態にとどまり、社会にも踏み出しにくくなってしまう。P175


 父親という存在は、現実の父親の存在・不在を超えて、つまりいなくても良い存在だということだろう。
父親は父親というイメージを体現する人物がいれば良い。
筆者はそう言っているようだ。
とすれば、父親は精子の提供者である必要はなく、他の人物でも良いし、女性でも構わないと言うことだ。
今後、ゲイのカップルが増えてくれば、同性の両親と言うことが充分にあり得る。
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 母親・父親に限らず、子供に接する大人たちが、互いに大人の悪口を言わないこと。
子供に接する大人たちのネガティブなイメージを植え込んでしまうと、子供は自分を守ってくれる大人という安心基地を作ることができない。
否定的な父親像を植え込まれることは、男性の理想像を育てにくくすると筆者は言う。
その通りだと思う。
しかし、これは個別の父親に限った話ではないように思う。

 テレビでも世を挙げて、男性を揶揄してきた。
フェミニズムをはじめとして、男性をけなし、強い男性を引きずり下ろしてきた。
男性像を否定してきた。
男性を否定したら、女性がその代わりになるか。
男女が同質だとすれば、男女共通の成人像を生み出さなければならない。
男女共通の成人像を子供の前に提示して初めて、新たな父親像を提示したといえるのではないだろうか。
いずれにしても、新たな成人像を提示することは、きわめて難しいと言わざるを得ない。
    (2014.5.9)
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参考:
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
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瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
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マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
信田さよ子「父親再生」NTT出版、2010
岡田尊司「母という病」ポプラ新書、2012
岡田尊司「父という病」ポプラ社、2014

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