匠雅音の家族についてのブックレビュー    母は娘の人生を支配する−「なぜ『母殺し』は難しいのか」|斉藤環

母は娘の人生を支配する
「なぜ『母殺し』は難しいのか」
お奨度:

著者:斉藤環(さいとう たまき)  日本放送出版協会  2008年 ¥920

 著者の略歴−1961年岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科樽士課程修了(医学樽士)。現在、爽風会佐々木病院靖袖科診療部長。専門は思春期・青年期の精神病理、病跡学。「ひきこもり」治療の第一人者。執筆や講演などによる文化評論活動も行う。著書に『社会的ひきこもり一終わらない思春期』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『ひきこもり文化論J(紀伊国屋書店)、『家族の痕跡−いちばん最後に残るものJ(筑摩書房)、『生き延びるためのラカン』(バジリコ)、『思春期ポストモダン成熟はいかにして可能か』(幻冬舎新書)、町アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)ほか多数。
 本書の副題に、「なぜ『母殺し』は難しいのか」と記されていたので、読むことにした。
今までも、母殺しを主題にした本には、それなりに目を配ってきた。
しかし、母子密着とか母娘の関係を述べたものはあっても、母殺しとうたった物は少なかった。
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 当サイトは、現在において母殺しが進行中であると考えるので、筆者の結論には賛成できない。
しかし、読み進むうちに、母殺しという概念を持ち出しただけでも、是とすべきだと考えるようになった。
結論はともかく、着眼点に星を献上する。

 精神科の臨床医として、毎日患者と接していれば、具体例から発想するようになるのだろう。
そして、具体例を解明するためにも、一般解がないと治療ができないに違いない。
それが筆者に、母殺しの困難性を言わせる原因なのだろう。
たしかに、近代の入り口で、父殺しはおきているが、母殺しはおきなかった。

 父殺しに比べて、母殺しができない理由があったのだ、と筆者言う。
筆者は、それを具体例のなかにみて、表紙にいう<難しい>から<不可能だ>と、発言をかえていく。
                         
 (母娘間)には、保護や依存が支配や被支配の問題を同時にはらんでしまうような複雑さがあります。まさに単純な感謝や赦しなどでは、とうてい決着をつけられないような諸問題が存在します。それゆえ母親は、この人の良い父親のようには、簡単に「殺され」てはくれません。父親とは簡単に対立関係に入ることができますが、母親とは対立できません。なぜなら、母親の存在は、女性である娘の内側に、深く浸透しているからです。それゆえ「母殺し」を試みれば、それはそのまま、娘にとっても自傷行為になってしまうのです。
 もう一度繰り返しましょう。象徴的な意味において、「父殺し」は可能であるばかりか、むしろ避けることのできない過程とすら考えられます。しかしおそらく「母殺し」は不可能です。母親の肉体を現実に滅ぼすことはできても、象徴としての「母」を殺害することは、けっしてできません。おそらく、こうした母殺しの不可能性は、父殺しの可能性と表裏の関係にあるでしょう。その意味では、父を殺しながら、母を殺しえないことにこそ、人間の条件が含まれているのかもしれません。P16

しかし、筆者は難しいと、不可能のあいだで揺れ動いている。
臨床医の経験から感覚的には不可能だと感じるが、論理的に突き詰めたことがないので、難しいと逃げざるを得ない。
論理化が苦手、そんな感じである。

 筆者の言葉は正直である。
むしろ、母殺しにたどり着いたことだけでも、良しとしなければならない。
筆者が言う、母殺しが難しい理由は、2つある。
1つ目は出産・授乳という肉体的な問題、もう1つは性別役割分業の問題である。

 出産にともなう肉体的な絆が、父子間と母子間で違うことは、当然であろう。
男性が精子の提供者にしか過ぎないのに対して、女性は卵子の提供者であり、かつ胎児の育生者でもある。
10ヶ月という妊娠期間と、乳がでるなどといった生理的な反応が、女性の心理に影響を与えないはずがない。
これだけをもって父子間と母子間の関係の質が違うといえるだろう。

 しかし、母子間は、子供が男性である場合もあるし、女性である場合もある。
男性を妊娠・出産した場合も、女性を妊娠・出産した場合も、女性の肉体的な反応は同じであろう。
とすれば、女性にとっての母殺しだけが、特別視される原因にはならないだろう。
男性が父を殺し、女性が母を殺す、というわけではない。

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 多くの場合、人は基本となる価値観を、まず親を通じて学びます。この点は、男も女も一緒ですね。ただし、男性にとっての父親の影響は、娘にとっての母親の影響ほど、決定的なものにはなりにくいように思います。
 なぜなら、男性的な価値観範は、しばしば父親の頭上を越えて、普遍的なもの (言葉やシンボル)とつながっている(ようにみえる)からです。だから、父親は必ずしも絶対的な存在ではありません。父親自らが示した価値観範に照らした結果、当の父親が軽蔑されてしまうということもありうるのです。
しかし、母親の価値規範の影響は、父親のそれに比べると、ずっと直接的なものです。P109

というが、近代の入り口でおきたのは、農耕社会の文化を担っていた神、そしてその代理人たる父を殺したのだ。
前近代の表徴としての父だったのであり、その父を殺したのは、近代を担った男性たちだった。
だから、男性による父殺しになったのだ。
近代を担ったのは、女性ではないという事実が、母殺しを生起させなかったのである。

 第2の理由である性別役割は、もう論じるまでもないであろう。
近代が用意したのが性別役割であり、社会的な労働からの女性の排除だった。
性別役割の従った分離よって、飛躍的な生産力の向上が可能になったのであり、女性も参政権をもつなど社会的な参加が可能になったのだ。

 農耕社会のように社会の1割程度の人間にしか、人権がないのでは、生産力が低すぎてとても女性はおろか、男性の解放も無理である。
臨床例からは、具体例しか見えてこないから、どうしても具体例のなかに原因を探してしまう。
女性患者は、現存する社会から生まれているのだから、症例は現代社会の反映になってしまう。
症例を集めて母殺しの不可能性を証明したことにはならない。

 近代社会は、女性を社会的な労働から排除したところに成り立ったのだ。
この家族的な現れが、性別役割分業だったに過ぎない。
とすれば、なぜ近代の入り口で、女性が排除されたかが、問題視されるべきだろう。
妊娠・出産は親子の関係としてみるのではなく、女性労働力の問題としてみるべきである。

 農耕社会では労働はすべて肉体に負っていた。
だから男性優位だったのだが、頭脳が台頭し始めた近代になっても、肉体優位の構造は変わらなかったのだ。
むしろ、頭脳労働の台頭と肉体優位が結合した結果、男性優位がむしろ強まってしまった。
田や畑では妊婦も働けたが、工場労働には妊婦は無理だった。
だから、社会的な女性の地位が下がったのである。
近代は圧倒的な男性支配の時代だった。

 情報社会に入って、肉体労働の価値が下がり、頭脳労働の価値が勝った。
そのため、肉体的な問題が問われなくなり、女性も社会参加ができるようになった。
と同時に、情報社会は子供が不要な社会だったから、女性は子供を産まなくても良くなった。
その結果、女性はかつての生き方に拘束されなくって、母殺しができるようになったのである。

 女性性とはすなわち身体性のことにほかならず、そこにはいかなる本質もないのだ、と。女性とは、その生育過程を通じて女性胎な身体を獲得するようにしつけられ、成熟してからももっぱら身体性への配慮によって、「女性らしく」あり続けようとする存在なのです。P182

と筆者はいうが、この女性観自体が近代の産物であり、同語反復に過ぎない。
前近代では男女ともに身体性の支配下にあったものが、近代になるとき、男性が身体性の支配から逃れて、頭脳性へと脱皮した。
同時にこのとき女性は、男性によって身体性に閉じこめられてしまったのだ。
これでは女性の本質を、定義したことにはならない。

 本書は現状をつかって現状分析しているので、近代の女性は母殺しができないと言う、同語反復という結果になったのだ。
今の女性たちがかかえる母殺しの困難さは、近代の入り口にたった男性も、父殺しの困難さとしてまったく同様にかかえていたはずである。
ただ、市民革命後の300年という時間が、父殺しを認識させただけである。
結局、精神分析という手法が、いかに保守的なものかを、筆者は言っているように感じる。
 (2009.1.5)
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参考:
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
須藤健一「母系社会の構造:サンゴ礁の島々の民族誌」紀伊国屋書店、1989
エリザベート・パダンテール「母性という神話」筑摩書房、1991
斉藤環「母は娘の人生を支配する」日本放送出版協会、2008
ナンシー・チョドロウ「母親業の再生産」新曜社、1981
石原里紗「ふざけるな専業主婦」新潮文庫、2001
石川結貴「モンスター マザー」光文社、2007

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
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末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
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ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
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ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
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山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
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赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
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ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
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末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史 まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997


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